SSブログ

第六百九十二話 体温 [文学譚]

 寒い。身を包む周囲の空気との温度差がまるでないような気がする。寒いと

いうよりも冷たいと言ったほうが正しいのかも知れない。寒い、冷たい。なのに

少しも震えていないのが不思議だった。皮膚は真っ白で血の気がなく、とても

命のある者には見えない。

 かつてとても小さく丸い存在だったことがある。ぷっくりした手。ベッドに運ば

れたその小さな手を見て、母が嬉しそうに微笑みながら、そっと指を差し込ん

できた。小さな手は何も考えずに反射的に母親のあたたかい指を握る。その

生まれたばかりの小さな存在にはまだ無に近い状態だった。

 気がつくと、少しだけ大きくなった手は、母親のあったかい手にしっかりと握

れて、どこかの町を移動していた。逃れようとしても母が握る力は強く、決し

て話すものか、離すとどこかに消えてしまうもの。そんな意思を感じさせた。諦

めた私はすべてを母に委ね、その大きな手にぶら下がって一日中を過ごした

ものだ。あれは遠い昔。それ以外のことは何も思い出せないほど年月が過ぎ

てしまったのだろう。

 すべての記憶が消えないものだとすると、そのときの母の顔も言葉も微笑み

も、すべて覚えているはずなのに、いまは何も思い出せない。私はいったい、

いまどこにいるのだろう。あれからどのくらいの時間が過ぎてしまったのだろう。

 かたん。がしゃん。

 微かな音のすぐ後に、大きな金属音が響いて飛び上がりそうになる。だが実

際には身動きひとつ出来ないでいる。

ばん、ばたん。

 嫌な音。もう二度とこんな大きな音は聞きたくない。

 はじめて妻の手に触れたときには、母親の体温を思い出した。そうだ、あれ

はいくつのときだったか。それさえも思い出せないのに、あのときの感触だけ

がなぜか突然甦る。心臓をどきどき弾ませながら、そう、呼吸の数も増えてい

たことだろう。愛なんて美しい言葉を並べながら、ほんとうは単なる生物の欲求

によって身体が動いていただけかもしれないのに。それでも妻も最初は微かに

反応し、やがて二つの手はしっかりと握り合った。母と子がそうしたように。

 いまの私にはあのようなあたたかいものは流れていない。白く、冷たく、かさか

さに乾燥して、皮一枚のしたにはもはや骨が存在するだけのような惨めな姿に

なってここにいる。どうしてしまったのだろう。何も思い出せない。いや、何かが

残っている。ああ、やはり何かあたたかいもの。このみすぼらしい皺だらけの手

を握ってくれた小さな手の記憶。それはそう昔ではない。昨日だったかもしれな

い。いや、もう少し以前だったのか。小さな手が私の指に触れる。何かを言って

いたようにも思うが、もはや私には理解できなかった。やがて大きな大人の手が

私を撫で回しては握ってくる。私にはあの小さな手の方が心地よかったのに。

 掌には何かしら特別の力があるのだという話を誰かから聞いて、それを子たち

にも伝えたような気がする。掌から発せられる体温や言葉では表せないなにか特

別なものが、人から人へと伝播して、ときには奇跡のようなことが起きるはずだと。

なぜそう信じていたのかわからないが、子たちに話した。そうかも知れないし、そう

ではないかも知れない。だが、そうだったら素敵だね。子供のひとりがそう答えたの

ではなかっただろうか。

 それにしても冷たい。少しでも温まろうと指先を動かそうとするが、それは微動だ

にしない。どうなってしまったのだろう。この先どうなるのだろう。案外不安な気持ち

でもなく、むしろ安堵に満ちているように思う。すべてはもう過ぎたこと。もう、解放

されるときが来たのだ。お香が漂う。私はここにいて、もうここにはいない。

 ぼっ。

 なにか時別な合図の音がして、炎に包まれた。

                               了


読んだよ!オモロー(^o^)(3)  感想(3)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。