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第六百九十三話 走る人生 [文学譚]

 どこまでも走っていける。生まれたばかりの時は、何にも考えずに走り
はじめて、最初は一キロ、二キロ。この世に生まれて、前へ前へと進んで
行くことが当たり前だと思っていたから、毎日走って十キロ、二十キロ。
そのうち、何のために走っているのか、何となく疑問が生まれて、それで
も毎週毎月、毎年走って気がつけば千キロ一万キロ。走っては休み、休
では走り、この世に生まれてそれだけ走り続けていると、いつしか中堅
なっていて。
 十万キロも走り続けると、大ベテランと呼ばれるけれど、もう早若い頃
のような元気さはなくなってきて、何となくの疑問はいよいよ大きく膨ら
んでいる。今までなんのために走ってきたのだろう。このままどこまで走
れるのだろう。いつまで走り続けることができるのだろう。
 長い間生きてきたから、身も心もずいぶんすり減ってきた。友の中には
途中で事故にあったり、考えられないアクシデントで天国に召された者
も数多いというのに。私は何とかここまで走り続けることができたのだ
 長く走り過ぎたのかもしれない。こんな疑問に悩まされる。とっくに天国
へでも行ってしまっていたら、こんなことを考えることなど、きっとなかっ
ただろう。私は走るために生まれてきたのだろうか。前へ進むためだけ
に生きてきたのだろうか。
 疑問はさらに広がっていく。走ることをやめたらどうなるのだろう。走
ることをやめるというのは、何を意味するのだろう。走るために生まれ
たのではないとすれば、いったい何のために? ただ同じところに留まっ
ているために生まれたのだとすれば、走ってきたことは間違いだったと
いうことなのか? 知り合いの中には、途中で走ることをやめた者もい
る。彼らはもう、走ることをやめて、一カ所に留まることを選んだ。いま
も学校の校庭や道端などの同じところでじぃっと動かずにいて、それ
なりの生を享受している。でも、果たしてそれが私たちの本来の姿なの
だろうか?私にはそうは思えない。
 仲間の多くは、いや、ほとんどがいまこの時間にも、走っている。何の
疑問を持つこともなく。まだ若いからそうやって無心に走れるやつもい
るが、年老いてなお愚直に走っている仲間だっている。馬鹿か。そう思
てしまうことも、申し訳ないけどあるのだが、実際のところ、馬鹿は私
自身なのかもしれない。何のために走るのかなんて、答えのない疑問
ばかり気を取られてしまっていては、もう、前には進めなくなってしま
いそうなのだから。
 ああ、こんな虚しい気持ちを抱えたままでまだ走り続けなければなら
いのならいっそ命を投げ出してしまいたい。そうだろう。かつて同じ
問を抱えてしまった者は、私と同じことを考えた。ウェルテルだって
うだろう? だが自分から命を投げ出すなんて、恐ろしくてできない
し、そう簡単にできるもんでもない。神様、どうか私のこの悩ましい疑
問に答えてください。さもなければ、もうこんなことを考えなくてもいい
うに、私をこの世からすくい上げてください。
ーーーずばん!
 突然、破裂した。走り続けてすり減ってしまっているところに、道端
に落ちていた釘が刺さったのだ。修復不可能なまでに壊れてしまった
から、もう、走り続けることはない。
               了

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