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第六百九十六話 切断 [文学譚]

 Re;えっ、そうなんですか? 知らなかったです。

 Re;なるほど。今度注意して見てみます。

 Re;へぇえー? 勉強になりますたぁ(^^;)

 毎日、いや、毎分、手に持ったスマートフォンの画面を操作してタイムライ

ンを見る。知り合いや、実際の知り合いではなくても、このタイムライン上で

知り合った誰かのつぶやきを見ては、それに反応する。自分から進んで書

きこんでいたこともあった。

”ああ、今日は嫌な上司にガツンとやられて、痛かった。”

”評判の映画を一人でみたけど、うーーーん。いま三つかな。”

 そんなことを書いても、誰もレスつけてこないから、つぶやきっぱなしで終了。

こっちが友達と思っていても、向こうはフォロー返しさえしてないのだから、つぶ

やきが届くわけがない。あのつぶやきというものは、みんな勝手につぶやいて

いるみたいに見えるが、実際にはやはり書き込んだモノは誰かが見てくれてい

るという思いで書いている。でなければ、何もインターネットを通じて配信する

ことはないのだ。自分だけで勝手につぶやくのなら、手帳に書くか、さもなけれ

ばスマートホンのメモに書けばいいのだから。

 それでも最初のころは、ランチを食べている店のことや、気に入った男子の話

など個人的なことを書いていた。すると、なぜだか行く先行く先、みんなが私の

ことをなんでも知っているかのような話題が振られるので、なんでだろうと考え

てみたら、自分で個人情報をばらまいているのだと気がついた。これは恥ずか

しいと思い、そういう個人情報は極力避けてたわいもないことばかりしか書けな

くなった。その上私のことを知りすぎた人たちのフォローを怖くなって解除した。

 というわけで、最近は誰かのつぶやきに反応することの方が多くなった。誰か

がこの映画は面白いと書いていれば、そうなの? じゃ、観る。とレスをつける。

観ると書いたからには観なきゃと思ってその映画を観る。あの小説が面白かっ

たと言われると、読む。このタレント好きだなと書かれていると、なんとなく私も

同じタレントが好きなような気がしてくる。あの政治家が言ってることはめちゃく

ちゃだというつぶやきを見ると、特には知らなかったその政治家はダメな人なん

だと思い込む。同じテーマについて、複数の人間が違うことを書いているのを

見るとどっちがどうやらわからなくなって、自分の中では両方共が自分の気持

ちであるかのような分裂した知性ができあがってしまった。

 そうやって、人の意見ばかりに反応しているうちに、私はいったいどこにいる

のだろう。私はいったい何なのだろう。そう思うようになった。喪失感。

 何かにつけて素直な私は悪くはないと思うのだけれども、自分の話をしなく

なって、誰かのつぶやきに反論することもなく、なんでもそうなんだと受け入れ

てばかりということをし続けているうちに、自分自身が消えてしまったようだ。

これではいけない。いけない、いけない。取り戻せ、自分を。いつの間にか

スマートホンを握り締めたまま、私は同じことを繰り返していた。やめとけ。

やめれ。ヤメれ。やーめーれー。

「ほんとうに、接続解除してもよろしいのですか?」

 機械が聞いてきたが、よろしいに決まってる。私は私を取り戻さなければな

らないのだから。最後のボタンに指をかける。ぷっつ。

 つぶやきタイムラインが切断された。

                               了


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第六百九十五話 ウェルテル効果 [文学譚]

 ドラゴン若木は時代の寵児として持て囃されている詩人で作家で音楽家とい

う若者のカリスマだ。黄泉の国で生まれたと主張するその生い立ちは明らかに

はされておらず、能面の上に妖しいゴシック調のメイクを凝らし、中世の西欧

で見られた甲冑を原型にしたようなコスチュームをつけてステージに立つので

素顔はもちろん、体格ですらよくはわからない。テレビや週刊誌といった俗悪

なマスコミを避け、ライブ活動と執筆活動だけで若者の心をとらえた。

 ステージで演奏される音楽は、いわゆるパンクロックと呼ばれているもので

はあるが、雅楽や二胡を取り入れることもあり、奇妙な独自の音楽世界を築き

あげていた。歌詞は日本語だが、ほとんどの歌は聞き取り不能で、ひたすらつ

ぶやいていたり、叫んでいたり、それでもその美声が心をつかむ。よく聞くと

歌の内容は極めて退廃的な、嫌世的なものに聞こえるのだが、それが彼の思想

によるものなのか、単なる言葉の暴力なのかはよくわからない。とにかく歌詞

は、「この世には意味などない」とか「人はなぜ生きているのか不可解なり」

などという繰り返しであり、それ以上でもそれ以下でもない。しかしこの言葉

のインパクトと、多くを盛り込まないシンプルさが、不確実な時代を生きる若

者たちの気持ちに共感したのだと思われる。

 出版物は、歌と同じ内容を中心としたもので、詩集にしても物語にしても、

常に十万部を売り上げているとはいうものの、彼の本が置かれているのは文芸

でも思想でもなく、タレント本のコーナーである。これを見ても、ドラゴン若

木のファンが買っているに過ぎないとわかるのだが、それにしても全国に彼の

ファンが十万人もいるのだと考えると大したものだ。

 若木の素顔は誰も知らないのは既に言ったが、名前が売れるに従って、彼の

奇行や奇妙な志向だけは世の中に広まった。広まったというよりは、故意に自

身で広めたのではないかという節もあるが、いずれにしても歌の内容とその奇

行はどこかリンクするものであり、それらによってファンが離れることはなく、

むしろ面白いタレントであるというこっとが広まって、新たなファンが増えて

いくのであった。

 ところがそのドラゴン若木が急死した。自宅マンションで亡くなっているの

が発見されたという報道がながれるや、列島全体に異様なまでの悲しみの空気

が流れた。悲しみに暮れる若者、ポスターの前で泣き続ける少女、悲しみのあ

まりにこらえきれない感情が怒りに変わって暴れはじめる少年、そうした若者

が一堂に会して暴動寸前にまでなったほどだ。若木の死に様は多くが伝えられ

ていないが、部屋の中は悲惨だったという。食事もあまりとらなかったのか、

豆類や芋類ばかりが散乱し、表沙汰にはされていないが、ドラッグも育種類か

があったらしい。直接の死因は、そおドラッグの入れ過ぎと、喉の奥にまで挿

入されたビニールホースによる窒息死だったとされている。これが事故死なの

か自殺なのか、不可解とされたが、法務上は結局自殺ということで決着した。

最後に執筆された書籍が遺書であろうと推察されたのだ。

 最後に執筆された書籍は、独自の考え方に基づいたハウトゥー的な内容と、

その内容に則した詩歌で構成されていた。ハゥトゥーとされる内容は、ほとん

ど死ぬ方法に近いような快楽手段の考察だった。本のタイトルは「死に至る快

楽」という過激なもので、要は、食欲と性欲を満たす独自の方法によって死ぬ

ほどの快楽を得ることができるのだという方法論と、それらによって俗世の些

事かrた抜け出して解脱できるのだという思想か宗教かわからぬ結果を得たとい

うことが面々と綴られていた。その本を締めくくっているのが、「自己完結で

あの世をトリップする」と見出しがつけられた最終章で、そこで書かれている

ことと同じ方法を自らに施した姿で息絶えていたのだ。

 自己完結とは? なにを自己完結したかったのか不可解ではあるが、彼の

喉に差し込まれていたホースの長さは二メートルほどあり、そのもう一端は

肛門に差し込まれて、ビニルテープで密封されていた。どうやら彼は、芋を

食い豆を食らって腹腔内でガスを発生させ、体内で生まれた自分のガスを吸

うことによってトリップを試みたのか、あるいはその毒ガスで自殺を図った

のと思われる。もちろんそれだけでは死に至るわけもなく、そこに分量を増

やしすぎたドラッグが作用したのだと考えられた。

 ドラゴン若木の死は若者に大きな影響を与えた。ゲーテの著作から名付け

られた「ウェルテル効果」とは、カリスマ性を持った人間の死によって、影

響を受けた若者があたかも殉職するかのように後を追ってしまうという社会

現象をさすが、その大きな特徴はカリスマと同じ方法による死を選択すると

いうものだ。過去、「若きウェルテルの悩み」を読んで自殺した者が銃を使

ったという話は日本ではあり得ないが、入水自殺をした太宰治の後を追った

者、飛び降り自殺をした女性タレントの後を追った者、その多くが同じ方法

をとって自らの命を絶ったとして大きな社会問題になった。そしていま、全

国のホームセンターで、長いホースとビニルテープの売れ行きが高まってい

るという噂が実しやかにささやかれている。

                     了

 


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第六百九十四話 常套句 [文学譚]

 降りそぼる雨の中をとぼとぼと歩を進めていた私は、雨傘がぼろ雑巾をかぶ

せているのかと思えるほど穴だらけであることに気がついた。それまではさっ

ぱりそうとは思いもしなかったのに、身体を覆っている一張羅が濡れ鼠になっ

てしまっている。真冬でしこたま着込んでいるから、肌身にまで雨が染み込ん

でこなかったために、どうやら気づかなかったようだ。この寒空に、下着まで

濡れてしまうようなことになったのではたまったものではない。と、そのとき

首筋にぽたりと冷たい感触が降りてきたので、これはいけないと破れ傘を見上

げると、穴だらけの骨の間からどんどん雨が滴り落ちていて、それが襟元へと

伝ってきているのだ。なんてことだ。せっかく分厚い衣服でしのげていたと思

ったのに、これでは台無しじゃないか。外套を経由することなくいきなり皮膚

へと侵入してくる雨にこれはたまらんわいとばかりに道端にあった店のテント

の下に逃げ込んだ。これでひとまずは安心だと思わず胸を撫で下ろす。しかし

安堵したのもつかの間。やはり雨が落ちてくるのである。なんだこれは。思わ

ずテントを見上げると、な、なんと店のテントも穴だらけではないか。なんと

まぁ驚いたことに、店の中は結構新しく改装されているにも関わらず、予算が

足りなかったのか、テントは古びた破れ腰巻きのようによれよれで穴が開いて

しかも一部は破れた箇所の布が垂れ下がってしまっているという塩梅なのだ。

 それにしてもよくまあこんな外装で商売ができるものだと呆れ返りながら、

仕方なく店の中に足を踏み入れた。と、次の瞬間、店内から大きな声が飛ん

できた。「へい、いらっしゃい!」な、なんなのだ。ここは寿司屋か? そ

れとも魚屋か? 威勢のいいのは生鮮を扱う飲食店と決まっている。

「まいど、何かお探し物でも?」

 それにしてもこの親父、ノリノリではないか。この雨の中、いったい何を

そんなに威勢良くしているのだ。こんな天気では客足も少なかろうに。だが、

すぐにそれが間違った認識であることに気がついた。なんとまぁ、狭い店内

はすでに人で溢れかえっているではないか。実はこの店は雨具も扱っている

雑貨屋、今風に言えばコンビニなのだ。老損とか七拾壱とかいう名前の大手

ではない個人商店には違いないのだが、親父、こざっぱりしたユニフォーム

でニコニコ愛想を振りまいて、ビニール傘やビニール合羽を客に売りつけて

いる。それだけで驚いてはいけない。店の奥に目をやると、なんとそこには

脱衣場が設置されていて、衣類乾燥機やらドライヤーやらが無料で使えるよ

うになっているのだ。そんなものを只で使わせていては儲からないであろう

と思うのだが、よく見るとタオルや櫛、靴下、下着、ワイシャツまで、備品

に安い値をつけて販売しているのだ。乾かせばそんなものはいらなさそう

だが、やはり乾かしたといえども、それをもう一度着るのは抵抗があるよう

で、衣服を乾燥させた客のほとんどが新しい靴下や下着を購入して着替えて

いるようなのだ。なるほど、この雨を商売に生かしているわけだ。

 だとすると、表のテントが破れているというのも、あながち予算不足によ

るものということでななさそうだ。うん、そうに違いない。あそこで雨宿り

などされたのでは、店に客が入ってこない。それどころか、入店しようとす

る客の妨げになってしまう。むしろ、一見雨宿りができそうなテントのしつ

らえで雨宿り客を引きつけておいて、実際には雨宿りなどできないような状

況にしているわけだ。そうしておいて、立ち止まった客が店内に入らざるを

得ない、という仕掛けになっていると来た。これはまるで食虫植物か何か、

罠のようだ。親父、よくまぁそんなこと考えたものだ。

 私は乾燥機やドライヤーを使うほどには濡れていなかったので、しかしこ

のままこの店に長居をするわけにもいかないので、何かしら雨具を購入して

退散することにした。

「親父、一番安いビニール傘を一本、いただけますか?」

「ああ、申し訳ない、一番安い傘は300円、その次のは500円のがあったの

ですが、ご覧のようにみなさん大勢がお買い求めになられましてなぁ、あと

はこちらの千円のものしか残っておりませんが。しかし、これはワンタッチ

ですので、後々も便利に期しよういただけますが」

 ああ、やはり。ビニールのが見えないからそんなことだろうとは思ったが。

私は仕方なく千円を払ってジャンプする傘を購入した。まぁ、これで雨を避

けることができるのだから仕方があるまい。私は早々に店を出て右手に傘を

掲げて親指でボタンを押した。ワンタッチで開く傘は片手しか使えないとき

に便利なのであるが、いまの私は別に両手が開いているわけで、あまりどう

ということもない。傘は文字通りジャンプするかのごとくぱさっと勢いよく

空に向かって全身を広げた。

 おや? なんだかおかしいぞ。傘は開いたが、役に立っている気配がない。

そうなのだ。たいていの場合、雨を避けるために傘などを買ってしまうとこう

いう目に遭うものだ。つまり、その、なんです、先ほどまであんなに降りしだ

いていた雨はすっかり上がっており、空には青いところすら見えはじめていた

のは言うまでもない。

 

 ……とまぁ、いわゆる常套句を多様してこんなものを書いてみたのですが。

どうです? なかなか便利なものでしょう?常套句。これはこうした立派な小

説に見えるものをお書きになる人のために見繕った言葉を使った「小説風常套

句サンプル」ですな。あ、ほかにも「ビジネス常套句集」「冠婚葬祭常套句集」

それから、これなんかいかがです? 「上等な常套句集」お安くしときますよ、

旦那さん、一家に一台、便利ですよ、おひとついかがかな?

                     了

 


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第六百九十三話 走る人生 [文学譚]

 どこまでも走っていける。生まれたばかりの時は、何にも考えずに走り
はじめて、最初は一キロ、二キロ。この世に生まれて、前へ前へと進んで
行くことが当たり前だと思っていたから、毎日走って十キロ、二十キロ。
そのうち、何のために走っているのか、何となく疑問が生まれて、それで
も毎週毎月、毎年走って気がつけば千キロ一万キロ。走っては休み、休
では走り、この世に生まれてそれだけ走り続けていると、いつしか中堅
なっていて。
 十万キロも走り続けると、大ベテランと呼ばれるけれど、もう早若い頃
のような元気さはなくなってきて、何となくの疑問はいよいよ大きく膨ら
んでいる。今までなんのために走ってきたのだろう。このままどこまで走
れるのだろう。いつまで走り続けることができるのだろう。
 長い間生きてきたから、身も心もずいぶんすり減ってきた。友の中には
途中で事故にあったり、考えられないアクシデントで天国に召された者
も数多いというのに。私は何とかここまで走り続けることができたのだ
 長く走り過ぎたのかもしれない。こんな疑問に悩まされる。とっくに天国
へでも行ってしまっていたら、こんなことを考えることなど、きっとなかっ
ただろう。私は走るために生まれてきたのだろうか。前へ進むためだけ
に生きてきたのだろうか。
 疑問はさらに広がっていく。走ることをやめたらどうなるのだろう。走
ることをやめるというのは、何を意味するのだろう。走るために生まれ
たのではないとすれば、いったい何のために? ただ同じところに留まっ
ているために生まれたのだとすれば、走ってきたことは間違いだったと
いうことなのか? 知り合いの中には、途中で走ることをやめた者もい
る。彼らはもう、走ることをやめて、一カ所に留まることを選んだ。いま
も学校の校庭や道端などの同じところでじぃっと動かずにいて、それ
なりの生を享受している。でも、果たしてそれが私たちの本来の姿なの
だろうか?私にはそうは思えない。
 仲間の多くは、いや、ほとんどがいまこの時間にも、走っている。何の
疑問を持つこともなく。まだ若いからそうやって無心に走れるやつもい
るが、年老いてなお愚直に走っている仲間だっている。馬鹿か。そう思
てしまうことも、申し訳ないけどあるのだが、実際のところ、馬鹿は私
自身なのかもしれない。何のために走るのかなんて、答えのない疑問
ばかり気を取られてしまっていては、もう、前には進めなくなってしま
いそうなのだから。
 ああ、こんな虚しい気持ちを抱えたままでまだ走り続けなければなら
いのならいっそ命を投げ出してしまいたい。そうだろう。かつて同じ
問を抱えてしまった者は、私と同じことを考えた。ウェルテルだって
うだろう? だが自分から命を投げ出すなんて、恐ろしくてできない
し、そう簡単にできるもんでもない。神様、どうか私のこの悩ましい疑
問に答えてください。さもなければ、もうこんなことを考えなくてもいい
うに、私をこの世からすくい上げてください。
ーーーずばん!
 突然、破裂した。走り続けてすり減ってしまっているところに、道端
に落ちていた釘が刺さったのだ。修復不可能なまでに壊れてしまった
から、もう、走り続けることはない。
               了

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第六百九十二話 体温 [文学譚]

 寒い。身を包む周囲の空気との温度差がまるでないような気がする。寒いと

いうよりも冷たいと言ったほうが正しいのかも知れない。寒い、冷たい。なのに

少しも震えていないのが不思議だった。皮膚は真っ白で血の気がなく、とても

命のある者には見えない。

 かつてとても小さく丸い存在だったことがある。ぷっくりした手。ベッドに運ば

れたその小さな手を見て、母が嬉しそうに微笑みながら、そっと指を差し込ん

できた。小さな手は何も考えずに反射的に母親のあたたかい指を握る。その

生まれたばかりの小さな存在にはまだ無に近い状態だった。

 気がつくと、少しだけ大きくなった手は、母親のあったかい手にしっかりと握

れて、どこかの町を移動していた。逃れようとしても母が握る力は強く、決し

て話すものか、離すとどこかに消えてしまうもの。そんな意思を感じさせた。諦

めた私はすべてを母に委ね、その大きな手にぶら下がって一日中を過ごした

ものだ。あれは遠い昔。それ以外のことは何も思い出せないほど年月が過ぎ

てしまったのだろう。

 すべての記憶が消えないものだとすると、そのときの母の顔も言葉も微笑み

も、すべて覚えているはずなのに、いまは何も思い出せない。私はいったい、

いまどこにいるのだろう。あれからどのくらいの時間が過ぎてしまったのだろう。

 かたん。がしゃん。

 微かな音のすぐ後に、大きな金属音が響いて飛び上がりそうになる。だが実

際には身動きひとつ出来ないでいる。

ばん、ばたん。

 嫌な音。もう二度とこんな大きな音は聞きたくない。

 はじめて妻の手に触れたときには、母親の体温を思い出した。そうだ、あれ

はいくつのときだったか。それさえも思い出せないのに、あのときの感触だけ

がなぜか突然甦る。心臓をどきどき弾ませながら、そう、呼吸の数も増えてい

たことだろう。愛なんて美しい言葉を並べながら、ほんとうは単なる生物の欲求

によって身体が動いていただけかもしれないのに。それでも妻も最初は微かに

反応し、やがて二つの手はしっかりと握り合った。母と子がそうしたように。

 いまの私にはあのようなあたたかいものは流れていない。白く、冷たく、かさか

さに乾燥して、皮一枚のしたにはもはや骨が存在するだけのような惨めな姿に

なってここにいる。どうしてしまったのだろう。何も思い出せない。いや、何かが

残っている。ああ、やはり何かあたたかいもの。このみすぼらしい皺だらけの手

を握ってくれた小さな手の記憶。それはそう昔ではない。昨日だったかもしれな

い。いや、もう少し以前だったのか。小さな手が私の指に触れる。何かを言って

いたようにも思うが、もはや私には理解できなかった。やがて大きな大人の手が

私を撫で回しては握ってくる。私にはあの小さな手の方が心地よかったのに。

 掌には何かしら特別の力があるのだという話を誰かから聞いて、それを子たち

にも伝えたような気がする。掌から発せられる体温や言葉では表せないなにか特

別なものが、人から人へと伝播して、ときには奇跡のようなことが起きるはずだと。

なぜそう信じていたのかわからないが、子たちに話した。そうかも知れないし、そう

ではないかも知れない。だが、そうだったら素敵だね。子供のひとりがそう答えたの

ではなかっただろうか。

 それにしても冷たい。少しでも温まろうと指先を動かそうとするが、それは微動だ

にしない。どうなってしまったのだろう。この先どうなるのだろう。案外不安な気持ち

でもなく、むしろ安堵に満ちているように思う。すべてはもう過ぎたこと。もう、解放

されるときが来たのだ。お香が漂う。私はここにいて、もうここにはいない。

 ぼっ。

 なにか時別な合図の音がして、炎に包まれた。

                               了


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第六百九十一話 ニッポン未来のとう [可笑譚]

  いよいよ選挙がはじまった。年の瀬の街には選挙カーが登場し、駅前では各

党の出馬者たちによる熱のこもった街頭演説行われている。

 今日、この街の駅前で演説しているのは日本未来の党というこのたび新たに

生まれた新党だ。私はこの新しい政党に、密かな期待を寄せているのだが。

「みなさん、このたび発足しました日本未来の党でございます! 私はこの党

からこの選曲に出馬いたします、宇曽野奈伊蔵と申します!」

 演説をはじめたところに、なにかモダンなデザインの屋台を引いた男がやっ

て来て、しばらくは選挙演説を聞いていたのだが、やにわに選挙カーから少し

離れたところの路上で屋台の店を準備しはじめた。まもなく、路上販売の準備

が整うと、屋台に備えた拡声装置をオンにして、いよいよ販売を開始するよう

だ。

「みなさん、我が党は、この名前のとおり、日本の未来を考える党であります!」

 屋台のスピーカーからは、微かにAKEBI娘と呼ばれるアイドル集団のヒッ

ト曲が流れている。その歌詞は♫ニッポンの未来はおうおうおうおう!♫と

いうあの曲。屋台のスピーカーからオヤジの声がする。

「そして私のこの屋台では、ニッポンの未来を先取りする糖を考えております」

「我が党が約束するのは、税金の無駄遣いを即刻やめるということであります!

これはとても重要です!」

「そのとおりでございます。無駄な税金はやめて、そのお金で買えるもの、それ

が私の未来の糖でございます~」

「さらに日本未来の党では、アメリカとの貿易に大きく影響を与えるTPP問題

につきましても、日本独自の意思を持って対応するべきであると……」

「そのとおりでございます。我が未来の糖が使われているのは、キャンディ、

チョコレート、イチゴ大福、和洋どれをとっても日本独自の美味しさを盛り上

げるのあります」「我が、日本未来の党は、原子力発電につきましても、慎

重に検討を重ねた上で、これを卒業するという考えの下に……」

「そうなのでございます。もはや原子力発電の威力をも淘汰するこの美味

しさ! ニッポン未来の糖は、それほどすごい美味しさを秘めておるので

ございます。皆さま、未来の糖、未来の糖! ニッポン未来の糖をよろしく

お願い申し上げます」

「日本未来の党! 甘くて美味しい、未来の党! 皆さま、未来の党を」

「甘くて~美味しい、未来の糖!」

「国民の皆様に甘くて美味しい未来の党を、どうぞ~よろしくお願いします~」

「未来の糖!」

「未来の党!」

                      了

                     inspired by snakeman-show


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第六百九十話 三匹の子豚ちゃん [妖精譚]

 やさしい母の元で仲良く暮らしていた三姉妹は、大人になるとそれぞれ独立

して一人暮らしをしていました。いちばん上の姉は、最初は普通にOLをしてい

たのですが、海外旅行に出かけたりブランドバッグを持っている友人に勧めら

れて、水商売の道に入ってしまいます。しかしホステスぐらいではそんなにお

金がもらえるわけではありません。次第に怪しい世界に足を踏み入れ、とうと

うキャバクラSTRAWという店で働くようになってしまいました。この店には、

普通の客に混じって、あまり質の良くない男もやってきます。そんな一人に気

に入られてしまった姉は、ストーカーまがいのこの男に付きまとわれてしまい

ます。毎晩家までやって来る男。そのうち、根負けして男に食われてしまいま

した。それからしばらくは男の情婦のようになっていましたが、やがて捨てら

れてボロボロになった姿で末の妹の家に逃げ込みました。

 真ん中の姉はもう少し賢い女性でした。首尾よく木造建築を手がける住宅

メーカーに就職し、順風満帆な人生を送っていました。社内にあこがれの先

輩がいて、なんとか恋人候補になりたいと願っていましたが、同じ会社の先

輩OLとの結婚を知らされ、どん底の気持ちになってしまいました。そんなとき

やさしく声をかけてきたのが、取引先の大上さんでした。それまでは先輩に

ばかり目を向けていたので全然気がつかなかったのですが、よく見ると彼も

なかなかのイケメンです。彼に誘われるままにお付き合いをはじめ、ついに

ある日、気持ちを許した隙に、彼に食べられてしまいました。その上、それき

り彼は姉を捨ててしまいました。彼にとって単に身体目当てだけのお付き合

いだったのです。身も心もボロボロになった真ん中の姉もまた、妹の家に逃

げ込みました。

 いちばん下の妹は、もっと賢い女の子でした。といよりも、母譲りの美形は

すべて二人の姉に持って行かれてしまい、この娘だけが父親似の残念な容

姿であったと言わざるを得ません。しかしそのお陰というべきか、これまで浮

いた話は皆無で、その結果男というものをほとんど知らない彼女は、もう男

嫌いではないのかというほど鉄壁の、いや、石のように守りの硬い女性に育

っていたのでした。就職先もさほど高望みもせず、小さな町の工務店で事務

員として地道に働き、真面目に貯金も貯め込んでいる様子が社長に見初め

られて、ぜひうちの馬鹿息子の嫁にという話が出来上がりました。妹は最初

はそんな大それたと断ったのですが、まぁ一度だけ息子とデートだけでも、

ということになりました。この家の馬鹿息子は、父親からはそのような呼ばれ

方をしていましたが、これがたいそう生真面目で頭のいい男で、国立大学を

てしばらく商社で働き、ノウハウを吸収した後に家を継ぐために帰ってきたと

いう今時珍しい地道な人間でした。もう三十歳を大きく上回っていましたが、

見た目も決しておじさん臭くもなく、それなりに女性扱いの出来るこの息子を、

妹はすっかり心惹かれてしまいました。もう、鉄壁の、いや石のような守りは

必要ありません。まもなく結婚してしあわせな生活をはじめていたその矢先

のことです。二人の姉が相次いでボロボロになった身を寄せてきたのです。

もちろん、仲のいい姉妹であり、やさしく賢い妹ですから、二人の姉に、しば

らく家で気持ちを癒すことを奨め、夫もまたそのことに賛同してくれました。

 妹の夫は、義姉二人の話を黙って聞いていましたが、すべてをっき終わっ

た後、意を決したように三人姉妹に言いました。

「そんな男は、男の風上にも置けない。僕はそういう男を許せないんだ。知っ

てしまったからには、成敗せずにはおれない。いいか、すべて僕に任してくれ

ますか?」

 妹の夫、武流享輔(ぶるうすけ)は上隠工務店の跡取り息子というのは表

の姿で、その裏側には闇の騎士だった。工務店の地下にこしらえた基地で

蝙蝠の扮装に着替えて、義弟たちの敵である男を懲らしめるために蝙蝠車

を発進させた。

 この後、上隠工務店は街いちばんの大企業にまで成長するとともに、この

町には蝙蝠男という守り神が存在することが知られるようになるのは、言う

までもない。

                                 了


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第六百八十九話 咳 [文学譚]

 咳が止まらない。こほこほと小さな咳が。

 十年数年前に、同じように咳が止まらない状態が続いた。もともと喉が弱い

らしく、小さな咳をしては「大丈夫?」「風邪ひいたの?」と周囲から心配されて

いた。私としてはもう慣れっこになっていたので、何も心配していなかったのだ

けど、そのうち四六時中咳が出るようになって、これはさすがにおかしいなと、

ようやく自覚して病院の扉をくぐった。呼吸器科の医師が私の状態を調べる

や否や「緊急入院」と告げた。

「え? にゅ、入院ですか?」

 私は驚いて聞き返した。

「喘息です。血中酸素の濃度も平常値を遥かに下回っています。よくここまで

一人で来ることが出来ましたね。大丈夫でしたか?」

 家の人に連絡をして、入院であることを伝えて着替え等を持ってくるよう

頼んだ。結局そのときは二週間入院して、点滴と酸素吸入で、血中酸素が

平常値に戻るまで帰れなかった。当の本人はそれほど苦しくもなく、喘息だ

というのに、玄関横の喫煙室へ通ったりして、不真面目な入院患者だった。

 退院してからも吸入器と呼吸量を確認するピークフローという小道具を渡

されて、注意深く生活をしていた。吸入器というのは小さなプラスチックの器

具で、小さなガスボンベみたいなのを取り付けて、シュッシュと口の中に吹き

込むのだ。ステロイド系のガスが喉の奥に入って咳き込みそうになる。喉の

どこかが収縮か拡散かわからないけれども、少なくとも血管と気持ちがきゅ

っとなって、咳が出にくくなるのだろうと思った。

 数年間吸入生活を続けていたが、次第にガスボンベがだぶつきはじめ、

ついには吸入を止めてしまった。いつしか咳は出なくなっていた。

 あれからもうずいぶん経つのだが、最近、喉のところに痰が引っかかる

ようになって、耳鼻咽喉科で看てもらったら、アレルギーだと言われた。今

回は喘息ではないらしい。こほこほと、咳が出る。私は煙草に火をつけて

ひと呼吸吸い込むと、当然ながらまた咳が出るが、それでも気持ちが落ち

着く。喘息のときもそうしてたのだし、本人がそれで治るのならいいじゃな

いか。言い訳しながら喫煙をやめない。

 こほこほこほ。もう癖みたいなものだから、苦しくもなんともないし。むしろ

咳をするたびに腹筋が働くから、ダイエットにいいのではないかしら?そう

思うくらい。こほこほこほ。医者はアレルギーだというけれども、いったいな

んのアレルギーだったっけ。スギ花粉と、埃と、動物の毛と、ダニと。ほかに

も何か言ってたかなぁ。こほこほ。最近、自分が嫌になっているからかもしれ

ないなぁ。自分アレルギー。こほこほこほ。

                                了


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第六百八十八話 青い鳥 [文学譚]

 青い鳥が逃げた。あんなに探して、国中を探して、ようやく見つけたのが家

の中だったという、あの青い鳥。メーテルリンクが描いた童話の千瑠と満兄

も、いろいろな国を探しまわって、結局自分の家にいた鳩が青い鳥だと知

ったというあの青い鳥。兄妹も、結局その青い鳥に逃げられてしまったという。

 私の家にいた青い鳥は、ほんとうの鳥ではない。心の中に描いた幻想み

たいな存在だ。私が自分で創り出したものだから、逃げるはずはないと信じ

ていた。だが、私の心の中からほんとうにいなくなってしまったのだ。

 まるでぽっかりと空洞ができてしまった心の中は誰にも見せることができな

けれども、その空虚さは次第に身の周りで具現化しつつある。たとえば、部

の片隅にある空っぽの鳥かご。鳥など飼った覚えもないのに。キッチンシン

は猫用の食器が汚れたまま。おいで、ご飯だよ。つい口に出してみるが、

もとりここはペット禁止のマンションなのだ。玄関には男の人の大きな靴。い

った誰が置き忘れていったのだろうか。

 父と母は、どうしているのだろう。田舎でしあわせに暮らしているのだろうか。

私の田舎は……どこだっけ。四国? 九州? 中国? そのどこの記憶もある

が、そのどこでもないような。両親は、いまどこにいるのだっけ? 私は健

忘症? いや、そうだ、もう田舎などない。両親はとっくに亡くなってしまったはず

だ。その証拠に、整理箪笥の上には遺影を飾っているではないか。 そういえば

妹はいつからいなくなったのだっけ。ずーっと、大人になってからも一緒に住んで

いた。三つ離れた妹は、私とは正反対の明るい性格の女の子。いつ出て行った

のか、この部屋には気配すらない。いや、待って。私には兄妹などいたんだっけ?

 そうだ、兄妹が欲しかった。一人っ子は寂しいと何度も母に言ったっけ。だけど

もうこの歳ではねえと母は笑っていた、中学三年の夏。従姉妹の真利江を妹の

ように思えたこともあった。だけど、あの子は大学のときに事故で亡くなってしま

った。

 私の部屋にはさまざまな思い出が抜け殻のように散らばっている。願えば叶う

自分に言い聞かせて夢を追い続けた若い頃。恋人も出来なくて、遂には婚期

も逸してしまって、それでもしあわせを願い続けて老いていた私。赤ん坊を産む

こともなく、子育ても知らず、生活のために安月給な仕事を定年まで続けるしか

なかった。これといって何をやり遂げることもなく、まもなく年金を受けるような歳

になって。

 もはやこの歳で、女で、ひとりで。手に職もなく、財産もなく。なんとかパート

で食いつないでいるけれども、しあわせなんて。

 まもなく年金が下りる歳になって、せめてそれが小さなしあわせと思いたかった

のに。なんとかいう名の大臣が宣言する。年金制度が来年から変わります。

 私にただひとつ残されたしあわせ、青い鳥が逃げていく。

                        了


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第六百八十七話 レジスタンス [日常譚]

 国民不在の政治に対して、不満の声が上がる。もっと生活者の声を聞け、よ

りよい暮らしにための政治を! しかしそんな政治家を選んだのはあなたたち

ではないの? 次はもっとしっかりと眼を凝らして政治家を選びなさい。

 と、ひとりの賢者が言った。ちょっと待て。よい政治家を選べとはどういう

ことか。政治家を選ぶために選挙に行けとはどういうことか。政治家すべてが

選ばれるような政治家に、まずなるべきではないのかと。さらにこう言った。

私は正しい国民のひとりとして、よりよい国づくりのために「何かをしない」

という選択肢を選ぶ。そう、私は選挙に行かない。みんなが選挙に行かなけれ

ば、民主政治は成立しない。まるで国民の責任のように選挙に行けというが、

選挙に行かないという姿勢もまた、正しい姿勢なのではないかな?

 抵抗のために何かをしないという選択肢。まるでガンジーの無抵抗主義のよ

うだが、なるほどこれは一理あるような気がした。前向きに意見を述べても、

なんだかんだと言い返される。それはおかしいと反対しても、それはあなたが

そう思うだけでしょう、と突き返される。ならば、そういう前に出る抵抗など

無駄な努力に違いない。あの賢者の言うように、何かをしなくなるという方法

は、もしかしたら前途を切り開くポテンシャルを秘めているような気がする。

 僕は態度を改めた。何かをするのではなく、何かをしないこと。そう決めた。

そしてそれをはじめたのだが、思いもよらない反撃が生まれた。向こうも同じ

作戦に出たのだ。僕がしないことを相手もしなくなったのだ。

 それをはじめてからすでに一ヶ月が過ぎようとしているが、いまのところ物

事は好転したようには思えない。だがきっと、もうすぐ何かが変わるはずだ。

しかし、それをしないことは結構大変なものだ。おや? 奴が何かをはじめた

ようだ。なんだそれは。手を使って……何かの形を? 手話?

 突然話をしなくなった僕に対して、妻もそれに倣っていたが、次の行動は、

口を利かないのなら、これでと言うことなのか? さっきから妻はしきりに手話

で話しかけてくるのだ。

                        了


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