SSブログ

第八百十六話 覗き窓 [文学譚]

 日長一日、小さな窓を覗き込んでいる。暇で、退屈で、ほかになにもすることがないからというわけではない。その気になれば、することなんて山のようにできてしまう。だからあえてすることを作らないように抑えているという節もある。というか、実際、窓を覗いているのも、暇つぶしのように見えて、実は仕事のネタを探しているともいえるのだ。

 一日窓を覗いていると、実にさまざまな事象が見えてくる。おかしな人物や必死な人物など、人間ウォッチングが主流にはなるが、ときには人以外のもの……動物であったり自然現象であったり、あるいは人間が作り出したアートや音楽といった芸術品というものを眺めたりもできる。

 しかし、大の大人が一日中首ったけになって窓を覗いている姿を、誰かに想像すらされたくないものではある。真面目な顔をして覗いているときならまだしも、窓の中に見えるものによってはニマニマしていたり、いやらしい顔をしているときだってあるに違いないから。しかも、わたしがのぞている窓は、大きな窓のときもあるけれども、ほとんどはとても小さな窓だから、他の人にはその中に何が見えているのかなどまったく見えないのだ。いや、見せたくもないのだが。

 この窓を覗く行為は、昨日今日にはじまったことではなく、もう何年も何年もこうして窓を覗き続けている。この行為によってわたしはあたかも自分と世界がぴったりと寄り添っているような気持ちになる。わたしにはただの一人も友達がいないのだけれども、窓の中に登場する人々がいる限り、さみしいとは思わない。窓を通じてつながっている彼らはわたしにとってはとても大切な友達のようなものだ。もっとも向こうは私の存在にすら気づいていないのだが。だからといってなにも問題ではない。むしろこちらから一方的に知ってるだけの方がなにかと便利だし。リアルなつきあいって面倒くさいし。リアルな知り合いなら祝儀不祝儀なんていうこともあるわけでしょ? わたしはそんなのいらない。

 わたしにとってこの窓はなくてはならないもの。友達以上に、親戚以上に。中毒患者のようだと言われるかもしれないが、そのとおり、わたしは窓中毒かもしれない。わたしのこの姿は、まるで乱歩の屋根裏の散歩者ばりの存在かもしれない。わたしはそれを否定できない。でもそれでもいいじゃないか。わたしはこの窓と共に生きているし、窓があるから生きていける。

 もうおわかりかと思うが、わたしが窓と呼んでいるのは、壁に穴を開けた類のものではない。いつでもどこにでもあって、世界中を覗き込めるあの窓だ。わたしの家にも仕事場にも、それぞれ大きめの窓が置かれてあって、そのほかにも大小五つくらいの窓をわたしは常時持ち歩いている。同時にふたつ以上の窓を開いて覗いていることだって頻繁にある。

 窓中毒。それでもいい。それでわたしの精神が正常でいられるのなら。窓とのつながりだけでわたしの人間性が保てるのならば。

                                     了


読んだよ!オモロー(^o^)(2)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。