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第八百二話 花見客 [文学譚]

 今年の春はひと足早いようで、週末になると四月に入る前から桜を求める人々が弁当を下げてうろうろしている。我が家の近くにある公園も毎年たくさんの桜が花を開くので、大勢の花見客で賑わうのだが、今年からは自治体の条例によって火気を使えなくなったので、いささか昨年とは様子が違うようだ。つまりバーベキューを持ち込むことができなくなり、肉の焼ける匂いが公園からはなくなった。

 公園に向かう花見客の多くは我が家の横を通ることになるのだが、うちにも立派な桜の樹が一本立って下り、その満開ぶりに眼を奪われながら通り過ぎていくのが、縁側でお茶を飲んでいる私にも見える。我が家のささやかな庭は鉄線のフェンスで囲っているだけなので通りの様子がよく見えるのだ。もっとも反対に外からも家の中が見えてしまうのはいただけないのだが。とはいえ、この季節は皆桜に気を取られていて誰も人の家の中には興味を示さないから助かる。

「おおー、立派な桜ですねぁ」

 通りで花を見上げていた初老の紳士が縁側にいる私に声をかけてきた。奥方を従え、老夫婦で中高年ともなると、たまにそのような垣根の低い人がいるものである。私は自分から声をかけるタイプの人間ではないのだが、こういう家に住んでいると時折声がかかるので、適当に対処する方法をすでに学んでいた。

「そうでしょう、ありがとうございます」

「これだけの桜の木は、さぞかし手入れがたいへんなんでしょうなぁ」

 奥方が横でもう行きましょうよと言いたそうな顔で夫の顔を見ている。

「いえいえ、ここまで育ってくれていると、もう何も手はかかりませんよ」

 男はまだ興味深そうに聞いてくる。

「おや、そうですか。こんなに立派に花を咲かせる秘訣はなんなのでしょうなぁ」

「秘訣といいますか、私の父がたいそう可愛がっていましてな。詳しいことはわかりませんが、毎日樹に向かって話しかけながら何かと世話をしてましたがねぇ」

「ほぅ、話しかけながら……」

「そうなんです。やはり樹木も言葉がわかるんですかなぁ」

「言葉が?」

「そうですよ。動物も植物も、話しかけて愛情を注ぐことが大事だと思いますよ」

 父はほんとうに庭の植物を愛していたようで、桜の樹だけではなく、薔薇や蘭、シクラメン、水仙、小菊、椿など、狭い庭に所狭しと植え込んだ木々をとても大切にしていた。いつからそうだったのか私はよく覚えていないのだが、父が親の代から家を譲り受け、そのうちにサラリーマンを定年退職した頃には庭の手入れにいそしんでいたように記憶している。それにしても、この男はよほど桜が気に入ったのか、生来のおしゃべりなのか、少し面倒になってきた私になおも話しかけてくる。

「で、その父様は今もご健在で?」

「いえいえ、もうとおに亡くなりました」

「そうですか、それはお気の毒に。では、ご自分で育て上げられた立派な桜を、天から眺められているのですね」

「うーん、そうとも言えますが……実は、この桜がここまで立派になったのは、父が亡くなってからなんですよ」

「「おや、亡くなられてから?」

「ええ、父の遺言で、あることを頼まれましてね」

「「あることを……ですか」

「この桜には、父の魂が染み込んでいるんです。それに……栄養も」

「魂? 栄養?」

「ほら、よく言いますでしょう? 桜の樹の下に埋められているモノについて……」

 奥方が気味悪そうな顔になって男の袖を引っ張る。男もまた、微妙な表情をして、でもまだ何かを聞きたそうな顔をしながら、軽く会釈をして立ち去っていった。

 話しベタな私としては、これ以上もう知らない人との会話を長引かせたくない時に思いついた話のネタなのだ。

                                      了


 

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