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第八百十七話 手が離せない [文学譚]

 実はいま、とんでもない問題を抱えている。夕べからなにもできないでいるのだ。こんな個人的なことを人に言ってもどうにもならないことはわかっている。それにこの部屋にはオレしかいないのだから、誰かに言うことすらできないでいる。もし、誰かにこのことを伝えたとしてもきっと「まぁ、長い人生の中でそんなこともあるだろうよ」と言われるだろう。その程度にしか認識されないのだ、他人のことなど。
 逆の立場だとして、誰かからなにもできなくて困っているなどと言われても、オレはやはり同じようなことしか言えないだろうな。まぁ、休息だと思ってなにもしないでゆっくりすればいいじゃないかと。しかし、当の本人つまりオレにとってはそんな呑気に構えている場合じゃないのだ。
 なにしろまず、腹が減って仕方がない。夕べから何も口にしてないのだから。なにかラーメンでも作って食べればいいじゃないか、人はそういうだろう。ところがそんなことすらできないのだから困ったものだ。腹が減るのは我慢できる。今までだって、貧乏でなにも買えない時期なんて山ほどあったから、三日三晩腹を空かせ続けたことだってあるのだからね。オレにとってそんなことはさほど問題じゃない。もとより食うことにさほど執着しない人間だから、まぁ死なない程度に食えたらいいのだ。とはいえ最近はありがたいことに金回りは悪くないので食うに困ったことなどなかったのだけど。その分、若干肥えているから、まぁ食わなくても当分はこの腹についた脂肪がなんとか生かしてくれるだろうよ。
 オレにとって深刻な問題は飲み食いのことではなくってもっとメンタルな問題だ。作家を目指すために一年前に会社をやめてしまったオレは、毎日家にこもって作品を書くことに専念しているのだが、このところさっぱり筆が進まなかった。それでも無理クリなにかを書きつける習慣を絶やしたことはない。たとえ駄文であっても書かないよりはましだと思うからだ。もちろん駄文よりはいい文章を書くに越したことはないが。まだまだまったくの素人なんだからいいじゃないかと自分を甘えさせつつ毎日駄文を書きつけているが、その駄文さえ書けなくなってしまったらどうしようという不安感と常に対峙しているわけなのだ。
 まるで自分に課せられた責務のようにして書くという行為。これを諦めてしまうと、もはや仕事を持たないオレにはなにも残らない。そのオレがついに昨夜からなにも書けないでいる。頭の中ではああだこうだとさまざまなアイデアや文面が浮かんでは消えていっているのに、筆を持つことができない・・・・・・いや正確にはキーボードを打つことができないでいるわけだ。飯よりも酒よりも執筆。そう思っているオレの苦しさがわかるかい?
 会社を辞めたときにもらった退職金もいつまで持つかわからない。それに引き出しに入れてあった今月の生活費は昨晩なくなったはずだ。しかしそんなことはどうでもいい。オレはいま書きたいんだ。なのに書けないのだ。
 おおい誰か。なんとかしてくれ。誰もいないのか、いないよな。オレは一人ものだもの。どうすればいいんだ。なにもできない。椅子から手が離せないのだ。畜生、金なんてくれてやったのに、夕べの泥棒に。こんなことをしやがって。誰か、誰かほどいてくれ、オレを椅子に縛りつけているこの縄を。
                                                       了

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