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第八百二十二話 操り人間 [文学譚]

 翔太は九階にあるマンションの窓から大きく身を乗り出して眼下を眺めていた。大通りに面した建物なので、行き交う車が玩具のように見える。豆粒大の人間が往来する歩道を眺めているうちに、道路に吸い込まれそうになっている自分を発見した。

 そうだ、このまま飛び降りてしまえば、なにもかも楽になる。あの膨れすぎた借金も、子供の養育費も、別れた妻への慰謝料も、妻から被った精神てダメージも。すべてなかったことにできる。

 翔太は誰にいうともなくひとりつぶやきながら、さらに窓外に身を乗り出そうとしていた。昔の翔太は、こんな大胆な行動はできなかった。なにより高所恐怖症気味で、九階の窓から身を乗り出すなんて、考えてだけでも身を震わせていたはずなのに。

 そのとき翔太の足元で、みゃおうという声がした。飼い猫のナゴだ。その声に我を取り戻したかのように翔太は動きを止めた。

「ああ、ナゴ。ご飯まだやってなかったな。ごめんごめん」

 言いながら床に足を戻し、乗り出していた身を部屋の中に取り戻した。窓をぴしゃりと閉めた翔太は、いまなにをしようとしていたのかさえ忘れたようにナゴの餌やりに意識を集中した。

「そうだよなぁ、俺がいなくなったら、お前にご飯あげられないものなぁ」

 小さな餌皿の前にちんと前足を揃えてフードを食べているナゴが食べ終わるまで翔太は見ていた。この猫は生まれてすぐここに連れてこられて、それからは一度も部屋を出たことがない。マンションのこの部屋だけがナゴの全世界だ。俺のところに遊びにくりゃつなどいないから、ナゴのことを知っている奴は別れた妻子以外にはほとんどいない。だから俺はこいつを見捨てるわけにはいかないんだなぁ。翔太は改めてそう気がついた。

 そういえば、こいつはネズミを取ったりしたことないはずだが、そういう能力は生まれながらに持っているのだろうか。

 翔太はいつかぼんやりと見ていたテレビで話されていた不思議な話を思い出していた。

 猫にはトキソプラズムという原生生物が寄生していて、同じその虫はネズミにも取り付いている。トキソプラズムに寄生されたネズミは動きが緩慢になり、恐怖心も薄れてしまい、猫に捕まりやすい生き物になるという。猫はトキソプラズムを感染させたネズミが大きく太るまで放置しておいて、いい頃合になると狩りをして食べてしまうのだという。この現象を長年観察し続けた学者は、猫がネズミの脳をトキソプラズムを使ってコントロールしているのだとか言った。そして同じことが人間に対しても起こりうるのだと。

 しかし翔太の意識の中では、まさか自分が猫や虫にコントロールされているなんて考えてもいない。テレビの中の話は、テレビの中の話だ。そうのんびり構えてなにも怖く思ったりしない、これもまたトキソプラズムがもたらす精神的効果であるなんて、思っても見ない。

 そうそう、学者がひけらかす中途半端な知識を信じて不安を募らせるなんてとんでもなく生産性に欠けることだ。そんなことより、飼い猫を可愛がり、できればもっと猫の頭数を増やして養うべきだ。多くの猫を長生きさせるために、その猫を飼っている人間の寿命をも長くする。それこそが、我らトキソプラズムがより長くより多くこの世に生存するための戦略なのだから。

 単細胞生物と言われている虫に知能があって悪いはずはない。現にわたしはこうして考え、猫を操り、人間を操っているのだから。翔太の中に静かに身を潜めながら、私はナゴの繁殖相手を探すように仕向ける電気信号を翔太の脳神経系に送りはじめた。

                               了


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