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第七百八十四話 踊り場にて [文学譚]

 鉄の扉を開けると別世界が広がる。無機質な鉄骨が丸出しになったような階段が上下に伸びている。私がいるフロアは十階なので、ちょうどビルの真ん中あたりになる。ビル全体としては雑多なテナント企業が入っているうちの、三つのフロアを専有しているのが我社だ。受付や顧客サービス部門が一番下にあり、真ん中のフロアには庶務関係の部署、一番上が営業フロアとなっているのだが、用事のある部署へいくために三つもフロアを行ったり来たりする。普通はエレベーターを使うのだけれども、私は健康のために階段を使うようにしている。さすがに一階まで階段で降りようとは思わないが、ひとつふたつ下の階に行くくらいなら、せめて階段を上り下りして、普段の運動不足を解消しようと思っているからだ。
 今日もいつものように階段を使うために鉄扉を開けたのだが、階段を降りかけてあれと思った。半階下の踊り場に誰かがいるのだ。見たことのない制服を着た女性だ。どこかよその会社の従業員なのだろう。階段を使っている人が他にもいるのは当たり前だ。ときどき階段ですれ違ったり、誰かの背中を見ながら降りていったりということはある。だが、今そこにいる人は、上がりも下がりもしていない。バッグのようなものを下げてただ階段の踊り場に立っているのだ。
 踊り場でじっと佇んでいる人というのは、なんだか奇妙だ。移動の途中で何かを思い出して立ち止まってしまったとか、携帯電話が鳴りだして止まって話をはじめたとかならわかるのだが、その人は床に落ちたものを拾おうとしているわけでも、携帯電話も持っているわけでもない。ただそこに立っているのだ。最初は奇妙だと思った感情はすぐに気味悪いという感情に変化して、私はその人からは半階上の扉の前に立ったまま身動きできなくなってしまった。佇んでいる人をじーっと見つめたまま、早く下にでも降りてくれたらいいのにと考えていた。
 よく見ると彼女は、ただ立っているのではなく、私からは見えない階段の下に眼を向けている。何かをじーっと見つめているようなのだ。私はますます気味が悪くなった。こんな無機質で寒々とした階段のところに、いったい誰が好き好んで立ち尽くす? きっとなにか訳があるに違いないのだが、知らない人だけに不用意に声がかけられない。もし、何か訊ねたとして、こんなところに佇んでいる女性が危ない人間ではないという保証がどこにある? いやいやこんなビルの中に勤めている人間に、そんなおかしな人がいるものか。いや、でも。社会はストレスに満ちているから、彼女はペーパーナイフか何かを隠し持っていないとも限らないし。私は蛇に魅入られた鼠のように、まだ扉の前で立ち止まっている。すると、上階から降りてくる足音が響いた。
 カン、カン、カン。
 足音は、半階上の踊り場のところで止まった。知らない顔の背広姿の男だ。手に書類を持っている。この男も健康のために階段を使っているのだろうか。だが、知らない顔ということは、我社の人間ではないな。いったどこの階からどの階まで行くつもりなのだろう。薄暗がりに男の顔が見える。男はなぜだかぎょっとした表情で私を見つめている。眼を見開いたまま半階上の踊り場で立ち止まり、じっーっと私を見つめ続けている。
                                   了
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