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第七百七十八話 春霞 [文学譚]

 エントランスの自動ドアが開くと、目の前に明るい光が広がった。ぼんやりと暖かさおうな日差し。凍えていた昨日までの習慣で、何枚も重ね着をした上にダウンジャケットまで羽織ってきてしまったことを後悔した。寒さにはめっぽう弱いわたしは、冬場外に出るときはいつも完全防備でなければ不安で仕方がないのだ。まぁ、暑くなれば脱げばいいのよねぇ、ベビーバギーの中に話しかけて自分を納得させる。
 歩道に出て空を見上げると、もやもやした雲の中に埋もれた太陽がうっすらと見えた。天気はいいのに、直射日光は隠してくれている、ちょうどいい感じ。バギーを押してゆるゆる歩きはじめると、何歩も歩かないうちに首筋が汗ばんで来るのがわかった。あらぁ、やっぱり今日はあったかいのね。バギーの子に話しかける。通りは副幹線なので、いつも車の往来は多い。だからいつも見るとはなしに行き来する車を眺めながら歩くのだが、なんとなく見晴らしが変だなと思った。
 なんだろう? 何がおかしいのかな? すぐに気がついた。遠くの車の姿が見えないのだ。街の遠方が煙っていて、白いもやの中から徐々に車の姿が現れてくるのだ。まぁ、霞かしら? 頭の中に春霞という古風な言葉が浮かんだ。冬が終わって暖かくなりはじめると、空中の水分が雲のようになって視界がぼやける現象。そうだわ、これって春霞というものに違いない。
「春霞、たなびく山のなんとやら」
 頭の片隅に残っていたのはほんのわずかだった。誰かが呼んだ春の歌。ちゃんと覚えとけばよかった。こんな奇妙な風景を見て口に出す言葉がないじゃない。ほーら見てごらん。不思議でしょう? 地面にいるのに、雲の中にいるみたい。わが娘にも見せてやりたいと思ってバギーの中を覗き込むと、まだ深い眠りの中にいるのだった。
 でも、春霞っていま自分なの? もう少し遅かったりしないのかなぁ。とにかくこの街でこんな霞を目にするのははじめてだと思う。太陽がもっと上がって暖かくなったら消えるのだろうな。霞ってどんな味がするのかな。子供みたいにいろいろな疑問を思い浮かべながら散歩を続けるのだが、霞はいよいよ深くなっていく。いや、そうではないのかな? さっき車が姿を表した霞の入口にたどり着いたということなのかな? よくはわからないけど、とにかくもう数メートル先もぼんやりして、道路脇の店や軒先も見えにくくなってきている。なんだか少し怖くなってきた。そういえば、人通りも少ないなぁ。
 霞を吸い込んだからか、喉がいがらい。娘のバギーに雨よけのカバーを垂らして霞が入らないようにする。けほけほ、こほん、けほけほ。ああー、喉が変。引き返したほうがいいかしら? 振り向くと、いま来た歩道も見えなくなっている。フォッグっていう恐怖映画を思い出す。そういえば、こないだ北海道でたいへんな吹雪に見舞われて亡くなったっていうニュースが流れていたなぁ。ホワイトアウトって言ったっけ。でもあれは雪。雪だけど、同じように、もう目の前が見えないって言ってた。
 これ、しばらく待ってたら晴れるのかな? 誰かに聞きたいけど……どうして誰もいないのよ。いつの間にか車の姿も一台もなくなってしまっている。
 あ、目が痛い。喉も。この霞はいったい何? 昨夜のニュースを思い出した。他国から飛来しているという空気汚染物質の話。このあたりにも来ていると言ってた。まさか。
 白く煙った春霞だと思っていた視界の中の白さに濁りを感じた。そのとたん、濁った感じがますます膨らんでいき、白かった霞は薄汚れた火山灰のような色に変化した。その中に浮かぶ怪しく黒い毒粒。それは我が国で発生したものとは限らない。人の国のせいにするんじゃない。他国の人が言ってるらしい。けほっけほ。ああ、喉が痛む。赤ちゃん? 覗き込むと何ごともないかのように幼気に眠っている。眠っている? ほんとうに? いつもならとっくに眼を覚ましている時間なのに。抱き上げて確かめたい。でも、いまバギーから出すのは、この毒霞の中に放り出すようなものね。
 わたしはしゃがんでバギーの中を覗く。汚染物質がバギーの中に侵入しないように気をつけながら、そおっと腕を伸ばして、我が子の身体に触れてみる。なんだか……冷たい。寒かったのかしら。頬の温かみを確認するために、もう少し腕を伸ばす。
                                          了
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