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第七百七十一話 浮浪者 [文学譚]

 日長一日ぶらぶらしている。なにもしないわけではないが、なにもしていないに等しい毎日だ。わたしはこのままどうなってしまうのだろうと、少し不安になる。毎日背広を着てネクタイを締めて、電車に乗って通勤していた日が懐かしい。あの頃すでに大した仕事はしていなかったとはいえ、それでも自分が必要とされているのかもしれないという微かな想いがあった。毎日会社に通っているだけでなんとなく充実感があった。大切なモノはなくしてはじめてわかるというが、会社というものがこんなに大事な存在だったとは、あの頃は考えもしなかった。会社に行くことが嫌で嫌で。辞めたい辞めたいと思い続けていた。なのに、通勤そのものには充足感があったというのは大きな矛盾だが、世の中そういうものじゃないか。とにかく、なにもすることがない、誰もわたしを必要としていない、そう思うことがいかに辛いことであるか。
 会社に行かなくなった私は、時間はあるが、金はない。だからなにもしない。なにもできない。なのに腹だけは減る。壁にもたれかかってじっとしているだけなのに、腹がぐぅーっと鳴る。その上、なにもしなくても眠気だけは襲ってくるから始末が悪い。床の上にただ寝っ転がって、時には上半身だけを壁にもたせかけて。誰かが毎日恵んでくれるささやかな握り飯を口に入れて、また眠る。こんな怠惰な生活は、一層怠惰な精神を作る。風呂にも入らないから匂ってくる。まさに浮浪者の匂い。風呂に入らないから着替えもしない。周囲に異臭を放つ。誰も近寄ってこないし、声もかけられない。
 幸いにしてここには屋根がある。壁もある。よかった。雨風をしのげるだけでもありがたい。こんな生活を、わたしは望んでいたのだろうか。あれほど嫌だった会社を辞めて、自由の身になりたかった夢を実現したではないか。これが自由というものなのだ、きっと。だが、これではまるっきり浮浪者みたいだ。いや、みたいじゃない、浮浪者そのものじゃないか。思っているうちにまた眠気が襲ってきて横になる。気がつけば夜になり、握り飯を食ってまた眠る。朝と、飯と、夜の繰り返し。
「ほんとうに始末が悪い。汚らしいし。風呂暗い入ればいいのに」
 また文句が投げつけられる。毎日一回は、いや三回くらいは罵られる。邪魔だ、臭い、汚らしいと。かつてはわたしがここの主だったのに。金が尽きたとたんに、わたしはここを根城にする浮浪者に成り果てた。ああ、虚しい。ああ、臭い。
「もう、いい加減に仕事を探せばいいのに。ごろごろしてばかりで。困るわ」
 そう言って女は出かけていった。
 わたしはどうせはぐれもの。この家の中の浮浪者だ。それでいいではないか。まだホームレスにはなっちゃいないのだから。さぁ、もう一眠りしよう。何かをすると金がかかるのだから。
                                了

 

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