SSブログ

第四百五十七話 暗黙知。 [空想譚]

 人間の行動は、恣意的に学んで得るものと、いつの間にか身についている、

或いは学ばずして身についているものがある。この後者のように学ぶという事

を経由せずに無意識に身につけた知識や行動を暗黙知によるものという。この

暗黙知で身についている知識や行動を言葉で表すことは困難だ。

 たとえば、水泳。おおよそ大人から教わって泳げるようになるのだが、本質的

には教わらなくても人間は泳げる。赤ん坊をプールに浸けると、いつの間にか

泳いでいるという。自転車乗りにしてもそうだ。記憶の中では、父親が荷台を持

ってくれて一生懸命ペダルを漕いでいる様子が目に浮かぶが、実際、平衡感

覚や倒れないようにバランスをとること等は教わりようもなく、自らの体の中に

ある感覚を呼び覚まして自転車を漕ぎ出すものなのだ。

 山際海斗はよく奇妙な感覚に因われる。幼くして亡くした父親のことはほと

んど覚えていないのに、自分がいま父と同じような事をしていると感じたり、

実際に生前の父を知っている人に、お前が鼻を掻く癖は父親と同じだと言わ

れたりする。父親の癖なんて見たこともないのに。こういうのを血筋だと言っ

たり、遺伝体質と読んだりするのだろうかと海斗は思う。

 数年前、母親が亡くなってから空家になっている実家は、姉が相続してい

るのだが、もう古いし、誰かが住む予定もないから、転売しようと思うと言っ

てきたのは先月の始めだ。だから、一度田舎に帰って海斗が置いているも

のを処分するなり持ち帰るなりして欲しいとも言われた。そう言えば、学校

を出て以来離れてしまった実家の押入れや倉庫には、小学校時代の日記

や、中高生時分の教科書やコミック、その他もういらなくなったガラクタ等は

全てとりあえずと思って実家に置いてあるのだった。もう二十年も開けてな

いのだから、いまさら必要なものなどひとつもない筈だ。それでも、成績表

や日記、アルバムなど、海斗が子供だった頃の思い出の品々は捨てるに

捨てられないものなのだ。

 母の三回忌以来帰らなかった実家の押し入れからいくつものダンボール

箱を取り出した海斗は、一時作業を止めて古ぼけた手帳を手にしていた。

それは海斗のものではない。海斗の父親が使っていたであろう古ぼけた黒

い革の手帳だった。年度を確かめると、ちょうど海斗が生まれた年の手帳だ。

日付が入った日程のところには、父が従事していた建設会社の作業工程等

が小さな文字でぎっしり書き込まれていた。ほとんどの文字は海斗にとって

何の意味を成さないものであった。だが、海斗の誕生日のところには、”祝・

長男誕生!”と記され、そこから三ヶ月ほど後ページのには、父の日記らし

き記述が残されていた。

”四年前に授かった長女は母親似でとても可愛い。きっと美人に育つことだろ

う。下の子はまだ生まれて三ヶ月だが、もうしっかりとした顔つきをしている。

皆が言うには、私にそっくりだそうだ。だとすると、性格や考え方まで私に似

るのだろうか。いずれにしても、いい子達を授かった私たち夫婦は幸せだ。”

 まさに幸せだった頃の父の姿がそこにはあった。ところがそこからほんの数

ヶ月後である11月なると、仕事の記述もなく、”検査結果、黒””入院”など、

病気治療の予定がポツポツと記載されているだけだった。

 手帳の後半部の白紙になっているページはあまり活用されなかったようだ

が、所々に奇妙な図と文が描かれている。

 空中に浮いて座っているような人のイラスト。その横には”裏庭のブロック

塀。見えないが実際にある。”と走り書きされている。”目をつぶればそこに。

心の声が支持する”さらにこんな不可解な父のメッセージも。だが、何か書

かれていたに違いないそこから数ページは、破り取られ、さらに後ろは空白

のまま何も書かれていない。

 海斗はこの図とメモを何度も繰り返して眺めた。裏庭・・・この家の裏庭なの

か?ブロック塀って・・・今もあったっけ?よし、確認しよう。

 外に出て裏庭に回って海斗は、果たしてそこにブロック塀が残っているのを

見つけて、なぜかほっとした。イラストと実際の塀を見比べる。決して上手な絵

ではないが、実際の塀の様子がキチンと写し取られている。塀の真ん中より

少し右のあたり。イラストではそこに人形が浮いて座っている。なんなのだろう。

海斗はなんとしてでもこの意味を知りたくなった。塀のその辺で、イラストと同じ

ように空中に座る真似をしようとして、大きく尻餅をついた。

「ちぇ、なんだよう、何もないじゃないか!」

地面で打った知りをさすりながら海斗は毒づいた。

 それから数ヶ月。海斗は父の手帳を自宅に持ち帰っていた。毎日父の手帳を

開いては謎が解けないかと頭を捻っていた。

「何も見えないが何かがある。何もないが、何かがある。目をつぶって、心の声

を聞く・・・・・・?」

何度も同じ事を呪文のように繰り返してみるが、何も始まらない。

 しかしある日。なぜか海斗にはわかった。その日であることが。具体的にわか

っているわけではないが、夜十時過ぎ、何かに引き寄せられるかのように、ふら

っと都心のビル街を訪れた。こんな深夜のオフィス街はガラーンとして気味が悪

い。だが、海斗はこの時間にここに来なければならないと思ったのだ。勤め先の

あるエリアではないので、あまり詳しくはないが、昼間に何度か歩いたことのあ

るあたり。そしてビルとビルの間を抜けると、その向こうには、あの実家の裏庭

位の小さな空間があった。その場所を囲んでいるのはブロック塀ではなく、ビル

の壁だが、海斗は黙ってその一角に行き、腰をかがめるジェスチャーをした。

 すると、不思議なことに何者かが体を包み込み、海斗の体は、スポーツカー

のバケットシートにでも沈み込んだみたいに仰向けになった。目には見えない

扉が締り、目には見えないフロントウィンドウが被さった。もう、そこはオフィス

街の一角ではない。四方を包む透明な物質の向こうには永遠の星空が広が

っている。海斗はこの見えない船に誘われて宇宙空間にワープしたのだ。

 もし、この様子を見ていた者がいたとすれば、きっと腰を抜かしたことだろう。

一人の青年がビルの一角で腰を下ろすような動作をした途端に消え去った

のだから。だが、海斗の姿を見ているものは誰一人居なかった。海斗は一人

未知のビークルに乗り込んで、未知世界へとの飛び出したのだ。この先に何

かがあるのか、いや、何があるのか、海斗にはわかっていた。言葉にして誰

かに説明することは難しい。だが、本人にはわかっているのだ。この小さな

船の操作方法も、初めて見る宇宙航海図のセッティング方法も。そしてこれ

ら向かう見知らぬ惑星で誰と再会し、そこで何が始まろうとしてるのかさえ。

 海斗を失ったこの世界では、数日平穏だった。だが、一週間後、会社の連

中が騒ぎ出し、実姉に連絡が行き、そして海斗には癌が見つかっていたこと

が明らかになった。ステルス性の胃癌。海斗はこの病気を苦に何処かで命

を断ったのではないかということで落ち着き、ごく身内だけで葬儀が執り行

われた。姉は海斗はやはり父親の子だったんだなと、感慨深い涙を落とした。

                             了


読んだよ!オモロー(^o^)(2)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。