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第四百五十話 アイデンティティ。 [文学譚]

 女は四〇歳を過ぎると、いろいろ気になるコトが増えてくる。中には、いや

いや女は三〇歳からよという人もいるが、本当に嫌になってくるのは、私く

らいの年齢になってからだ。

 目の下のたるみ、目尻の小ジワ、ホウレイ線、毛穴の開き、肌のキメ、シミ

とくすみ・・・数えだしたらもうキリがない。最近私はもう諦めて鏡なんてみな

いようにしてるの、なんて嘯いている友人もいるが、そんなのは嘘だ。女だ

ったら毎日数分から人によっては数時間も鏡の中の自分を眺めているもの

だ。心底そんなことはしないという女性がいたら是非紹介してもらいたいくら

いだ。

 母なんて、朝私が目を覚ました時刻には、もうすっかり綺麗に化粧をし終

わって素知らぬ顔で自分の仕事をしていたものだ。長年鍛えたそのメイク

技で実に上手に仕上げていた。まぁ、もともと母は美しい人だから、そんな

にしみじみ自分の顔を眺めたりはしなかったのかも知れないが。朝寝坊の

私は、そんな時間に起き出して、すっかり明るくなった朝の光の下で鏡を覗

き込むものだから、アラ探しなんてしなくとも、向こうからどんどん知らせてく

れる。ほら、またシワが増えてるよ。ほら、今度はこんなシミ出来たよ。その

度に私はあーあとため息をついて鏡の中の自分をじっと見つめるのだ。

 ある朝のことだった。いつものように目覚めてすぐに洗面所で顔を洗っい

ながら鏡を覗き込んだ。

 「あれぇ?なぁに、これ?」

私は思わず大きな声で独り言を言ってしまった。唇の右上に小さな黒い点

あるのだ。私、こんなところにホクロなんてあったかしら?いやいや、まったく

えがない。四十一年生きてきて、ただの一度もこんなホクロは見たことがな

い。そういえば母には昔、右眉のところに大きなホクロがあったという。それは

ホクロというよりはイボに近いようなものだったらしい。直径六ミリくらいあって、

その根元は細く糸状の皮膚で顔とつながっていた。だから触っていたら今にも

とれてしまいそうな感じのホクロだったらしい。

 しかし、自分の顔は、鏡を覗き込まない限り決して見る事はない。だから、そ

んなに大きなホクロでも、本人は少しも気にしていなかったという。だが、祖母

はきっと気にしていたのだろう。ある日、まだ娘だった母が眠っている間に、祖

母がいつも裁縫で使っていた和ばさみで根元からホクロを切ってしまったのだ。

多少の出血はしたのかも知れないが、目を覚ました母はしばらく気がつかなか

った。二~三日過ぎてから、鏡の中の自分の顔の異変に気がついて祖母に告

げた。

「おかぁちゃん、私、眉のところのアレがなくなってるねんで。なんでやろ?」

すると祖母は、今初めて気がついたかのように、あらほんとうだ。と言ったのだ

が、娘があまりに不思議がるので、ついに白状した。

「なんでそんな勝手なことをするん?私の顔が台無しやんか!」

母はしばらく怒っていたらしい。他人から見ればいかにも邪魔そうに見えるホク

ロなのに、本人にしてみれば邪魔どころか、案外気にもしておらず、むしろ自分

の特徴の一つとして認識しているのだ。いわばアイデンティティのひとつである

とさえいえる自分の一部が、たとえ母親とはいえ自分の体から離れてしまった

ことは、幼い娘にとってショックだったのかも知れない。新しい自分を受け入れ

るまで、一ヶ月近くかかったと、母は私に言った。

 私の場合はホクロがなくなったのではなく、新たに出来てしまった。もしかして

これはシミ?あるいはニキビかしら?ああでもないこうでもないとしばらく洗面

鏡と手鏡を駆使して調査し尽くしたが、結局これはどう考えてもホクロであろう

という結論に落ち着いた。

 「ねぇ~、あなたぁ!ちょっとぉ、これを見て?」

私はまだベッドの中にいる夫のところに言って、口元のホクロを見せた。

「ふゎあ・・・なんだよ、朝から大きな声を出して。メシかぁ?」

「違うわよ、起きてよもう!ほら、私、こんなところにホクロなんてあった?」

「ええ?ホクロ?さぁ~覚えてないなぁ。」

夫もいい加減である。長年連れ添った妻の顔にホクロがあるのかないのかさえ

知らないのだ。そんなことでは、もし万が一私が飛行機事故にでも遭って無残な

死体となって発見された時に、果たして自分の妻であるかどうかの確認なんて

出来るのかしら?私は思わず飛躍したイメージを抱いてしまい、適当な夫に腹

が立ってきた。

「あなたにとって私はそんな程度の存在なのね!私の顔なんてどうでもいいっ

てわけ?」

「おいおい、ちょっと待てよ。こんなことで怒るこたぁないだろう。どれどれ?これ

かぁ・・・?ふーん、あのなぁ、口元のホクロっていうのはなぁ、色ホクロって言っ

て、男にモテるんだぞ。」

「何よ、それ。あなた、私のこのホクロに惚れたっていうの?ここにホクロがあっ

たのかどうかもわからないくせに、適当なこと言わないでよ!」

 もうこれ以上夫に聞いても仕方がないと思い、私はさっさとキッチンへ行って、

コーヒーメーカーをセットした。子供たちはみんなもう県外の大学に出てしまって

るので、ほかに確認する人もいない。母ももうとっくにあの世に行ってしまってる

し。これって、医者に見せた方がいいのかなぁ・・・?」

 一日が始まってしまうと、鏡の前での出来事なんていつの間にかどこかへ行っ

てしまう。私は夫と共に家を出て、それぞれの職場へと向かった。それでも、会職

へ向かうまでの道すがらでは、まだホクロがたいそう気になり、道行く人々が

私のホクロを見ているような気がしていたものだ。

 職場の同僚は誰一人、私の顔について何かを言うものはいなかった。私も仕

にかまけて、まるっきり忘れていた。だが夕方になって、退社時間も間近にな

った頃、営業から戻ってきた向い席の下山が私の所にやってきて言った。

「あれぇ?悦子さん、いつからエロホクロ持ちになりましたぁ?」

「・・・エ、エロホクロ・・・?」

「そうだよ、それって、口元のホクロってエッチホクロって言って、女の人に

とって、いいものなんですよ。・・・前からあったんだっけ?そんなの急に出

来るわけないものな。そっかー悦子さんって、隠れた美女だったんだなぁ!」

「隠れた美女って!?何よそれ?」

 色ホクロ、エロホクロ、エッチホクロ・・・なんだっていうのよ、ったく!私は帰

りの電車の中でずーっとこの言葉を繰り返していた。ホクロひとつで大騒ぎす

る人もいれば、まったく気がつかない人もいる。人間の認識って、適当なもの

よねぇ。私はつくづくそう感じた。

 家の近所のスーパーで食材を見繕って、家に帰り着いたのは七

時。夫の帰宅はもう少し後だろう。私は一息入れてから、夕食の準

備に取り掛かった。

 若い頃と違って、最近は夫も私もあっさりした食事に好みが変わっ

ていて、健康のためと称して魚や煮付けという年寄りみたいな食事で

満足出来る。今夜も焼き魚と昨日作った筑前煮があれば十分だ。

 さっさと食事の準備を整えた私は風呂場の掃除に取り掛かった。バ

スタブをさっと洗って蓋を占めて、洗面所に出た私は、今朝も眺めて

いた大きな洗面鏡に目をやった。

 「あれ?あれあれ!?」

私は混乱した。鏡に映っているのは私ではない。誰?誰かいるの?

鏡の前につっ立ったまま私は後ろを振り返ったり、玄関の方まで飛

び出てみたり。何が起きたのかわからなかった。

 鏡に映っている女、それは私ではない、知らない女。薄っぺらい唇

の右上に大きなホクロを付けて、垂れ目を大きく見開いて私をじっと

見ている。私より美人かも知れない。でも、いやらしそうなエッチそう

な、いかにも男が言い寄りそうな中年の女。色気の薄い私とは正反

対のイメージ。これが、私なんだろうか。私は前からこうだった?私

は思い違いをしていた?どうあがいても鏡の中の女は私のようだ。

 私はキッチンに戻ってダイニングの椅子の上へと崩れ落ちた。

 「ただいまー。おーい、いるのか?どうした、明かりもつけないで。」

まもなく帰ってきた夫はダイニングリビングのドアを開けて、電灯のスイッチ

を入れた。

「あ、なんだ、そんなとこにいるのか。何してる?」

テーブルに突っ伏した私を見つけて、夫は言った。

「何かあったのか?」

私は夫に背を向けたままかぶりを振った。

「なんだ、まだホクロのことで怒ってるのか?」

私はどうしよう、夫にこんな顔を見せられないと思いながら、恐る恐る夫の方

へと顔を向けた。夫は私の顔をちょっと見つめてから、にっこり笑った。

「なぁんだ、別になんでもないんだな?そのホクロだって似合ってるよ。」

 私は無反応な夫に驚いた。知らない顔の女がここにいるというのに、なんと

も思わないなんて、どういうことだろう?

「そうか、ちょっとお疲れ気味らしいな。どぉれ、なぁんだ、もうメシは出来てる

んじゃないか。では、あとはオレが。」

味噌汁を温めたり、ご飯をついだり、夫はマメに働いて夕食をセットした。いつ

もと変わらぬ様子でテレビを点け、ビールの栓を抜き、私にも勧めて来た。

「ほら、いっぱい飲めよ。」

食事をしながらテレビを見て笑っている夫に、私は言った。

「ねぇ、私・・・顔が変わっちゃった・・・。」

「うん?お前、ホント疲れてるなぁ。どうしちゃったんだ?」

家に帰ってから起きたことを一通り夫に話すと、夫は黙ってリビングボードの

棚からアルバムを持って戻ってきた。アルバムを開いて私に見せながら言っ

た。

「ほら、これ、一昨年旅行した時の・・・。」

私はアルバムに貼ら れた写真を見てまた驚いた。仲睦まじく写っている夫

と知らない女。その女の顔は、今日の私の顔だった。いったいこれは・・・?

 あの旅行の後、我が家ではちょっとした事件が起きた。夫の浮気疑惑だ。

毎晩帰りが遅くなりがちな夫の態度が不自然に思えて、私は夫を追求した。

だが、夫は全面的に否定し、挙句の果てに同僚まで連れて帰って自分の無

実を訴えた。結局私の思い過ごしということで片付いたのだが、私は女の勘

を無視できないでいる。あそこはああして収めたものの、本当は何かあった

に違いないと踏んでいた。そしてその相手の目測もつけていた。夫にちょっ

かいを出していたのは、夫と同じ会社の女子事務員。いつかの社員旅行の

集合写真に写っている姿を何度も見た。

 私とは違う、あまり色気のないあっさりした顔立ち。色気がない分、逆に知

的で真面目で聡明そうだ。私と真逆なタイプの女に、夫が惹かれたとしても

おかしくはない。

 私の口ホクロは、よく男達から冷やかされる。エロホクロだ、エッチホクロ

だと。でも、それはモテる証拠、美人の証拠だとも。美人と言われて悪くは

思わないけれども、本当の私は知的で真面目で聡明なのに・・・そう思うと、

違う顔に生まれてきたらよかったのに、なんて妄想することも少なくはない

のだ。

                               了


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