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第六百三十二話 恥 [文学譚]

 横断歩道で信号が変わるのを待っていると、私お前で歩きタバコをしてい

た男が、いきなり吸殻を地面に投げ捨てて、火も消さずに去ろうとしていた。

私は町の道徳委員でもなんでもないのだが、男の行動にムカッとして、思わ

ず火が付いたままの吸殻を拾って男にわたしてやろうかと思った。昔見たマ

ナーCMでそういうのがあったからだ。越前屋なんとかっていうお笑いタレン

トが、ポイ捨てされた吸殻を拾って「落し物しましたよ」と言いながら、捨てた

男に渡すというものだった。ポイ捨て現場を見かける度にあのCMを思い出

して、実行したくなる。

 だが、残念ながら私にはそれを実行する勇気も洒落っ気もない。タバコを

投げ捨てる者の中には、捨てたタバコがバラバラになるまで踏み潰す者や、

溝の中に投げ捨てる者など、まだ悪いなという意識が垣間見れるケースも

あるのだが、それにしても五十歩百歩だ。溝の中が吸殻でいっぱいになっ

たらどうするんだ。もし、どうしても捨てるのなら、せめてフィルターを取り外

してから、巻紙と灰と葉っぱだけを捨てるのだ。これらは結局風雨にさらさ

れて自然に還ることができるが、フィルターだけは化学繊維なので、自然に

戻る事ができないのだ。そんなものが地球の地表に溜まっていくとなれば、

地球の未来はフィルターだらけになるではないか。

 私はムカついた腹から沸き起こってきた痰をぐぇっと喉からはがして、道路

にぺっと吐き出した。なぁに、こんなものは自然の一部みたいなもので、吸殻

とは異質なものだ。地面に吐き出して何が悪いもんか。それにしてもここの信

号は長い。まだ変わらない。車道を通過する車が途切れるのを確認した私は、

まだ横断歩道は赤信号だったが、もう一度左右を確認しながら車道に歩み出

た。深夜の誰も通らない赤信号など、いつも完全に無視してしまうが、昼間だ

って、車がいなければいいじゃないか。道をわたり終えると、向こう側で母親

に手をつながれて待っている幼稚園児が大きな声で言った。

「赤なのにぃ、渡っちゃいかんよねぇママ?」

 小さい子にそんなことを言われる筋合いなどないわと思った私は、とっさに

「ほら、こっち側は青でしょ? だから青なの!」

 私はいささか訳がわからんことを言ったと思いながらも、怖い顔で子供を睨

みつけながら、その場を去ったのだが、ちょっと気分が悪いなぁと思った。そこ

から三分ほど歩くと、地下鉄の駅がある。私は地下に潜って電車に乗り込んだ。

昼間だから乗客は少ないが、座席はほとんど埋まっている。みんな中途半端な

席の取り方をしているので、人と人との間をもう少し詰めたら、まだ一人くらい座

れるのに。そう思っていたら、私の前の女性が少し尻を持ち上げ、それを合図に

みなが少しづつ詰めていくと、やはり一席分が空いた。どうやら私の睨みが効い

たようだ。いや、すまないねぇと私が動く寸前に、横に立っていた中年主婦が、あ

らどうも、ありがとう、と言いながらささっと私の前の空席に尻を押し込んだのだ。

なんだこのおばさんは! これは私のために空けられたせきじゃぁないか。本当

に厚かましいというか、厚顔無恥というか。

 最近とくに恥を知らない人々が増えてきたように思う。さっきのポイ捨てだって

そうだし、いまの席取りだってそう。車両の向こうでは若い母親が平気で子供を

走り回らせているし、こっち側の女子は車両の中で堂々とファンデーションなん

かを顔に叩いている。こんなこと、昔は人前でする女など一人もいなかった。っ

たく、日本人の美意識はどうなってしまったのよ。私たち日本人は、恥の文化を

もっと大事にしなきゃぁいけないと思うわ。こんな人たち、少し懲らしめてやらな

きゃ。

 つり革につかまりながら周りを観察していた私は、がたんと車両が揺れたのを

いいことに、少しふらついたフリをして、先ほど私の席を取った主婦の足を思いっ

きり踏んでやった。あっ!ごめんなさい。なんだかバチがあたったみたいね!聞

こえるように言ってのけてから、次の駅で降りてやった。あいつ、気が弱いのか、

何も言わずに睨みつけてきたなぁ。うふふとほくそ笑みながら、駅を出る。この駅

前には百貨店があって、今日はバーゲンを見にきたのだ。バーゲン会場にはもっ

とハレンチな中年女性が待ち構えているはず。私も負けるものか。ここは恥も外

聞もない。安いもの、得なものを手当たり次第に掴んでおいて、後から吟味する。

いらない商品は後から売り場に戻せばいい。両手いっぱいに抱え込んで闘って

いたら、知らないうちに一点くらいはバッグの中に潜り込んでいて、家に帰ってか

ら支払っていない商品に気がついたりする。まぁ、それもありでしょう。悪気がある

わけじゃなし。よぅし、おばはんには負けへんで! 私は店の入口に突進した。

                           了

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