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第六百二十二話 こじき [文学譚]

 気がつくと私は暗闇の中にいた。なに? ここはどこ? どうして私はここ

にいるのかしら? ぼんやりする頭を両手で抱えながら、私はなにが起きたの

かを思い出そうとしていた。子供たち……赤ちゃん。そうだ。私の赤ちゃん。

私は妊娠していたはずだ。だがいまはあのぽっこりと膨らんでいたお腹はもう

ない。私はあの子を生んだのだ。小さく、たよりない生き物。私のお腹の中で

十月十日育んだあの子を産み落としたときに、私は何らかの理由で子供の命と

引き換えに、自らの命をうしなったのだ。ああ、私は愛しい子供たちと、もう

逢えないんだわ。そう思うと急に悲しさがこみ上げていた。

「おおーい。イザナミィ〜」

 遠くの方で私を呼ぶ声がする。気のせいだろうか。

「おぅい! どこだぁ? イザ〜!」

 夫の声だ。夫が私を探しに来たのだ。私はむっくりと上半身を起こした。白

いシーツがかかった寝床を這い出し、身を整えた。壁についている鏡を覗き込む。

ああ、なんてひどい顔。浮腫んでしまってお化けのようだ。こんな顔を夫には見

せられない。鏡の前で見つけた櫛を手にもって、振り乱した髪を梳いた。櫛に引

っかかって髪が抜ける。ここしばらくろくに栄養を摂っていないせいか、ごっそ

りと髪が抜けていく。おおーなんてことだ。私は手櫛で髪を適当に整えて、真っ

暗な部屋を出た。廊下は薄暗く、長い通路の向こうに明るい開口部が見える。

「おおーい! いるのかぁ?」

 どうやら開口部の外から声はしているようだった。壁づたいに手で支えながら、

よろめく足を前に運ぶ。一歩、一歩歩くうちに身体が慣れて来て、普通に歩ける

ようになっていく。出口までむすぐだ。と、そのとき、出口に人影が見えた。夫

の姿だ。

「あなたぁ!」

 夫がこちらを見た。

「あなたぁ! ここよ! 私はここにいるの」

 夫は一歩、二歩、中に足を踏み入れ、私に向かって来ながら、両手を差し出す。

私も前へ進み、あと数メートルのところまで近づくことができた。薄暗がりの中

にあの凛々しくてやさしい夫の顔が見えた。ひどく疲れて、その上何かに怯えて

いるような表情。

「イザ、俺は、俺は。お前を失ってひどく動揺した。そして悲しんだんだ。子供

たちも不憫だ。だから俺は長老に相談し、呪術に訊ねて、お前がいるに違いない

この黄泉国までやって来たんだ。大変だった。魑魅魍魎がうろうろするエリアを

抜けて、ようやくここにたどり着いたんだ……」

 私は嬉しくて涙がこぼれた。涙を拭うと、腐敗した皮膚の一部がぽろりと落ち

た。

「あなた! うれしいわ」

 そう言いながらさらに夫に近づくと、髪がぼろりと抜け落ちた。夫は私の姿を

じぃーっと見ていたが、私が近づく様子に震え上がり、出口の方へ後ずさりした。

「あなた! どうしたの? 私よ!」

 口の中まで腐敗しはじめている私の声は奇妙な恐ろしいそれになっていた。夫

は踵を返して出口の外に出た。

「あなたぁ!」

 慌てて夫に追いすがる私。出口の外で夫の着物の端に指がかかり、引っ張ろう

とすると、するりと抜けた。

「待って! あなた! 私を探しにきたのでしょう?」

「違う! 俺はそんな化け物を探しに来たのではない!」

 夫は死後変化してしまった私の姿に恐れをなしたのだ。

「姿は変わっても、中身は私よ!」

「そ、そんなことわかるものか! お前は、お前は、俺が愛するイザナミじゃない!」

「なにをいうの? 私よ、イザナミよ!」

「あっちへ行け!」

 そう言い放って、夫は駆け出していった。

「待って! 置いてかないで!」

 私も無我夢中で追いかける。夫は走りながら、手当り次第にものを投げつけてくる。

道沿いになっている果実や草の枝を、私に投げつけて、追っ手を阻止しようとする。も

ともと体力を失っていた私はついに力つきて走れなくなった。

「あなた! 私はもう、走れない! あなた……私、仙人に頼んで命をもらうわ!」

「なんだって! そっちが千人の命をもらうというなら、こっちは千五百人の命を生み

出すわっ! あっちへ行け!」

 こうして私は黄泉の国に取り残され、夫のイザナギはもとに国へと帰っていった。

 

「ほんとうは、こういうことじゃったのかもしれんのぉ、フォッフォッフォ!」

 ひろばに集めた若者たちに話をしていた乞食のじいさんは、大きな口を開けて笑った。

                         了

 

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