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第六百十七話 お可視化問題 [文学譚]

 見えているものが、真実とは限らない。これは私が幼い頃から父に叩き込ま

れた考え方だ。九州の炭鉱町で働いていた父は、いつも自分の不遇を呪って

いた。本当なら、こんな田舎町で石炭掘りなんかやっている自分ではない、俺

にはもっと意味のある役割があるはずなんだ。これが父の口癖だった。大学に

行けなかったのも、九州の田舎町を離れることができなかったのも、すべて親

の貧乏のせいにしていた。それは事実であるといえる部分もあるが、私に言わ

せれば、本当に学問がしたかったのなら、貧乏であっても奨学金制度とか、何

か方法があったはずだと思うし、町を離れたかったのなら、勝手に飛び出して

行けばよかったのにと思う。だが、それは父に比べて恵まれている環境に置か

れているから言えることなのかもしれない。昔は、親に逆らうなどということはで

きなかったと父は言う。

 自分が不遇だと思っている父にとって、何もかもが自分の能力とは違う何かの

おかげで思うようにいかないのだと信じていた。高卒で資源開発会社に入った父

は、学歴社会の真っ只中で、下積みの仕事ばかりを強いられた。同世代の高学

歴組がさっさと昇級していくなか、父は十年遅れでようやく主任になった。だが、

それもつかの間、炭鉱が廃れていくのと並行して、父は多角経営の元併合され

た清掃会社へと出向させられた。清掃会社は、市の要請を受けて、下水設備の

清掃やメンテナンスを行う会社だ。それはもちろん、公共事業として社会の役に

立つ大切な仕事なのだが、父にとってはゴミのような仕事だったのだ。こんな仕

事は誰にでもできる。俺にしかできない仕事があるはずなんだ。そう考えていた

のだ。

 では、父にしかできないこととは一体何なの? と訊ねると、父はいつもコップ

に注いだ安酒を水のように飲みながら、のらりくらりとよくわからないことを話した。

「それはな、いろいろあるったい。いろいろありすぎて、俺にもわからんと。じゃが

な、俺には俺にしか見えんもんが一杯あるったい。それが仕事につなげることが

できさえすれば・・・・・・できさえすれば・・・・・・」

 父はいつもそんなことをうだうだ言いながら卓袱台に頭を押し付けて眠ってしま

うのだった。高校生だった私は、早くに失った母の代わりに、この飲んだくれた父

を寝床まで連れていって、万年床の中に押し込まなければならなかった。

「おい!、見ろ! 美代子! これを見ろ!」

 ある嵐の夜、茶の間で父が騒ぎ出した。外は大雨、雷が光っていた。父が目の

色を変えて指差す先は、ちょうどテレビが置いてある壁のあたりだった。テレビが

どうかしたのかとそのあたりを見ていると、雷が光るたびに、その部分が不思議

な感じに怪しく光り、何かが見えるのだ。

「これだ、これだよ美代子。俺が言っていた、見えるものと実際が違うっちゅうの

は、このことったい!」

 光の合間に、古ぼけた壁が透明な壁に変化し、その向こうにはとてつもなく明

るい空間があった。その空間には立派な椅子やテーブルがあり、立派なスーツ

に身を包んだ父に似た男が椅子の横に立っていた。テーブルには見たことのな

いような料理が並んでおり、もうひとりの私が席についていた。一瞬の光りの中

に垣間見えた幻想のような光景だった。だが嵐が静まると共に、壁は光を失い、

うちくたびれた壁と、古いテレビだけが元通りの光景の中にあった。

 あれからもう三十数年の歳月が過ぎた。父はあの後しばらくして病気に罹って

亡くなり、私はというと、故郷を離れた都会の街で暮らしている。私は父が遺した

お金を元に事業をはじめ、何万人もの従業員を養うほどに成長した会社を夫に

委ねて、今は政界への進出を考えている。それもこれも小さい頃から英才教育

を受けさせてくれ、その上莫大な財産を遺してくれた父のおかげだと思っている。

父の死は早すぎたし、あっけなかったが、それでも幸せな人生を送ったはずだと

思う。父も田舎町の資源会社の経営者としてよくやっていたと思う。

 だが、不思議なのは、時々私の頭の中でくすぶり出す子供のころの思い出なの

だ。なぜあのような生活をしていたような記憶が残っているのだろう。あれほど成

功していた父が下積みの仕事に悩み苦しみ、酒に溺れていたという、あるはずの

ない記憶。早死にした母に代わって、貧しい生活を私が切り盛りしていたような記

憶。それは、父が何度も私に教えてくれた「目に見えるものが真実とは限らない」

という謎のような教えと関係しているのだろうか。

 最近ちょくちょく頭に浮かぶ不思議な記憶を反芻しながら、私は今度母に訊ねて

みようと思った。このところ忙しくて会えてないが、もうすぐ八十の誕生日を迎える

母は、湘南の別荘に住まわせている。幸せな生涯を送ってきた母は、自分は恵ま

れていた。だが、恵まれない年寄りもたくさんいるのだから、そうした人々のために

も、社会福祉はもっと充実してくれないと、と常々話す。その母の気持ちを実現させ

たいから、私は政界への進出を考えているのだ。きっと、私の不思議な思い出も、

この福祉問題への取り組み意欲と関係していると思う。電話の呼び出し音が鳴って、

受話器を取り上げる気配がした。受話器の向こうで、母の元気な声がした。

                             了

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