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第六百二十六話 初期化細胞 [妖精譚]

「・・・・・・つまり、すでに分化してしまっている細胞の初期化が可能ということ

です」

「初期化・・・・・・ですか?」

「そうです。たとえば、皮膚の細胞は皮膚の役割をするような設計図に基づい

て作られているわけですが、ここに四つの遺伝子格を注入することによって、

分裂前の単核受精卵と同じ姿におどすことができるわけです」

「ということは、皮膚の細胞がまっさらになると?」

「そうです。IT用語でいうところの初期化が可能なわけです」

 ノビール賞を受賞したばかりの山中田教授の話を熱心に聴いていた其田女史

は、自らも生理学研究に取り組んでいる研究者だ。以前から何度も山中田教授

の講義は聴講してきたが、こうして間近に話を聞くのは初めてだ。IPS細胞につ

いても、より一層深いところまで理解することができたようだ。

 細胞に四つの遺伝子核を注入することで初期化できる・・・・・・。其田女史は、

初期化という言葉に強く反応していた。三十路を過ぎている女史は、最近特に

研究で徹夜続きな生活をしているためか、肌の衰えを気にしはじめているから

だ。シミ、皺、たるみ。こうしたものすべてをなんとかしないと、今に老人のような

顔になってしまう。

 研究室に戻った其田女史は、早速四つの遺伝子核を抽出し、培養液カプセル

の中に保存した。この液体が初期化細胞をつくるのだ。だとすると・・・・・・其田は

この培養液を皮膚細胞に注入するかわりに、ブラウスの袖をまくりあげ、自分の

腕に注入した。もしかすると、新たな現象が現れるかもしれないではないか、そう

思ったのだ。危険はない。細胞レベルではなく、人体レベルでも同じ事が起きるか

起きないか、それだけだ。反応はすぐには現れない。代謝の速度が伴うからだ。

 翌日。それは微かな兆候を見せはじめた。なんとなく肌の調子がいいのだ。化

粧ノリがいい。もしかすると? 其田は内心喜んだ。

 さらに翌日。明らかに肌がスベスベになった。まるで赤ん坊のそれだ。やった!

山中田教授は、細胞にばかり目を向けていて、人体そのものへの効果までは試

験していない。この発見で、私は次のノビール賞をもらえるかもしれない。その上

若返りも! 自分の肌の初期化に成功した其田女史は、その次に何が起きるか

までを予測することはできなかったようだ。

 次の日の朝。それは発現した。すべすべの赤ん坊のような肌をした女性がベッド

の上で目覚めた。だが自分が何者なのか、何故ここにいるのかわからない。そん

な表情で、無垢な瞳がただただ白い天上を見上げている。初期化。それは、細胞

のみならず、其田の身体の全てに効果をもたらしたようだ。其田は、身体のすべて

を赤ん坊と同じレベルにまで初期化することに成功したのだ。

                                    了


 

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