SSブログ

第六百十六話 愛の食虫花 [怪奇譚]

 朝の光に目覚めると、繁子はまだベッドの隣で軽い寝息を立てていた。雄一

はいつものように音を立てないように起き上がり、台所のコーヒーメーカーをセ

ットしてから身支度を整えた。自分一人なら牛乳とパンでいいのだが、あとから

起きだしたときに繁子が欲しがるだろうと思って、いつもコーヒーを用意するの

だ。二十分後、トーストをコーヒーで流し込んだ雄一が出かける時間になっても、

繁子はまだ起きだしてこなかった。

 新婚当初は共働きをしていて、夫婦ともに起きて朝食を摂ったものだが、繁子

が体調不良を理由に仕事を辞めて家で過ごすようになってからは、次第に遅く

起きるようになった。雄一も身体の弱い繁子を気遣って、何も言わなかった。家

計も、雄一ひとりの収入だけでもなんとかやっていけたし、また体調が戻ったら

働くなり、何かをするなり、繁子が思うようにすればいいと思っていた。れた

弱みで、八年間も一緒に過ごしてなお、繁子がそこにいてくれるだけでいい

考える、雄一はそういうタイプの夫だった。

「最近ね、なんだか家の中に小さな虫が多くなったと思わない?」

 夕食のときにそう訊ねられてはじめて雄一は、そういえばそうかもしれないと気

がついた。都心の新しいマンションの高層階で、入居当初は蚊も蝿も一匹だって

いなかったのだが、建物が古びていくからか、あるいは生活ゴミのせいなのか、

それはわからないが、いつの間にかベランダのゴミ箱や植木のあたりに、小さな

蝿や蟻が蠢いているのを見かけるようになったのだ。

 虫の存在を見つけると、繁子は殺虫スプレーや容器に入った殺虫剤を買ってき

て処理していたようだが、ある日雄一が帰宅すると、テーブルの上に奇妙な鉢植

えが置かれてあった。

「なんだい、この花は?」

「ああ、それね、虫を獲ってくれる植物よ」

「食虫植物か」

「なんだか殺虫剤を使うのって、人間の身体にもよk内ような気がして・・・・・・」

 食虫植物はひとつではなかった。テーブルの上にはムシトリスミレという植

物が、ベランダにはモウセンゴケ科のなんとかいう植物と、ハエトリソウの鉢

植えが置かれてあった。どこでどう調べてきたのか、我が家は急に珍しい植

物の展示室になったようだった。

 食虫植物というものの実物を見るのははじめてだった。図鑑で見たウツボ

カズラやモウセンゴケは、なんだかぬめぬめしていやらしい植物だという印象

がある。生きている虫をとり殺すというイメージのせいかもしれないし、また、

人間を溶かしてしまうという架空の植物が登場する物語のイメージがあるか

らかもしれない。いずれにしても、雄一にとって、食虫植物は気持ちの悪いも

のだった。だが、繁子が手に入れてきたものは、決してそうではなかった。む

しろ美しさを主張していたり、いまはまだ咲いていないが、可愛らしい花をつ

けるといった植物なのだった。

 一般的な花は、土の中にある栄養素を吸い上げて生育するのだが、虫は

その花粉を運ぶために美しい花に引き寄せられる。だが、考えてみれば、土

の中には虫たちの死骸から輩出された養分も含まれていて、植物たちはそう

いうものを吸い上げているのだ。食虫植物は、いってみれば一般的な虫との

関係をショートカットして、花粉を運ばせる代わりに、直接栄養分となってもら

うという形態をとっているだけで、自然生態の大きなサイクルの中ではなんら

おかしなものでもなんでもないのかもしれないな、雄一は考えた。美しい花の

姿や匂いに引き寄せられて、蜜をいただく代わりに花粉を運ぶ一生と、同じ

ように美しい花に引き寄せられて、甘い蜜に埋もれながら身を呈するという

生き方と、どちらも虫にとっては幸せを感じるものなのかもしれないな。

 雄一にとって繁子は、魅力に満ちた女性だ。友人からは、よくあんな美人を

と、結婚当初はよく冷やかされた。自分自身でもそう思う。彼女のためなら、な

んだってしてやれる、そう思っていたし、いまでもその気持ちは変わらない。冷

静に考えれば、なぜそんな風に思うのか、繁子のどこが好きなのか、正直言っ

て雄一にもわからない。だが、愛とはそんなものなのだろう。好きだから、好き

なのだ。愛しているから、愛があるのだ。繁子が好む生活をさせてやりたい。

好きなものを食べさせたい。欲しい服やバッグも、できる限りは買ってやりたい。

そのために自分は生きているんだ。そのために毎日働いているんだ。そう、こ

れこそが生きがいであり、生きている証なのだ。

 雄一は、そんなことを考えながら、まだ眠っている繁子の頬に軽いキスをして

から静かに玄関を出た。

                                 了

続きを読む


読んだよ!オモロー(^o^)(1)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。