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第六百二十八話 文学青年の尽きない悩み [文学譚]

 たいていは家の中に引き蘢って本ばかり読んでいる。ぼくは大人だけれども、

ビジネス書やノウハウ本などは読まない。すべて小説や詩集、いわゆる文芸書

ばかりだ。書斎代わりに使っているダイニングテーブルに本を置いて、椅子に

浅く掛け、方を背もたれに押し付けるような姿勢で読書をする。そんな姿勢

で読むのならソファとかに座ればいいのにと思うだろうが、あれはいけない。

ソファの座面は柔らか過ぎて、いよいよ姿勢が怪しくなるし、なにより本を

乗せる台がないと疲れるのだ。

 後ろ斜め四十五度くらいの角度で背もたれに寄っかかっているぼくは、腹

の上に手を乗せ、その先に本が載せられているテーブルの天板があるという

格好で、いつまでも本を読み続ける。文芸書の中に描かれているさまざまな

物語はぼくを捕まえて、非現実という現実の中に連れて行くのだが、いった

ん入り込むと、我を忘れて読み進んでいくから、食事を忘れることはもちろ

ん、トイレに行くことさえ忘れてしまう。

 左手は本の左端を押さえているが、ページをめくる右手は常に臍の右側あ

たりに乗っている。そこから右手動かすと、次のページをめくるのにまた労

力が必要になるから、定位置に固定し続けていると、ほんとうに右手がその

場所に固定されてしまった。ぼくの右手は臍の右側から生えたような格好で

動かなくなってしまった。というより、もはやぼくの右手は右肩ではなく、

腹から突き出ている。そんな馬鹿なと思うだろうが、幻想の世界ではよくあ

ることだ。文学というものは、実はなんでもありなのだ。中にはリアリティ!

と口をすっぱくいうような文学者もいるが、それは現実世界に置ける現実味

とは少し違う意味だ。所詮物語はフィクションなのだから、その嘘話がまる

でほんとうのことに思えるという意味でのリアリティだ。つまり、本を読ん

でいる読者が信じることができるならば、なんでもありなのだ。

 実際、いまのぼくにとって、右手が腹から突き出ていることになんの違和

感もないし、むしろページをめくるためにはいっそうこの方が便利なので、

この現実に感謝しているくらいだ。さきほど、トイレに行くことも忘れると

言ったが、そうはいうものの膀胱に水分が溜まってくると、忘れていた用事

は否が応でも思い出させてくれる。しかし、いま正念場である物語からいっ

ときでも離れるのはいやだ、どうしようと思ったとき、ぼくの股間がもぞも

ぞしだして、パンツの端っこからホースが出て行こうとしたが、いや、ちょ

っとそれはいくらなんでもいかんぞ、家の中であろうともそんな破廉恥なと

思いなおして、股間の動きを止めさせた。そんなことより、こっちの方法が

あるぞと思いついたことを下半身に命じると、そうなった。ぼくの下半身は

ちょうどズボンの腰のあたりから外れて歩き出し、ひとりというか、半人は

トイレに向かっていき、自分だけで用事を済ませに行った。だからその間も

ぼくは本を読み続けることができ、物語はますます佳境にはいっていく。

 まもなく下半身が戻ってきたので、よしよし偉いぞと褒めてやってから、

元通りに上半身と合体させながら、こんないい方法をいままでなぜ思いつか

なかったんだろうと思った。そろそろ腹が減ってはきているのだが、まさか

頭だけ食堂に行かせるわけにもいかず、まぁ、本を読み終えるまでに空腹死

することもないだろうからと、それはやめておいた。何しろ、頭だけが出か

けていったとなれば残された身体だけで、どうやって読書を続けるというの

だ。

 夜になり、まだ三分の一ほども読み残しているというのに、眠気が襲って

きた。そこでぼくは、いい方法を考えついた。つまり、半分ズツ眠るという

方法だ。まず、左眼をつぶって左眼と右脳を眠らせる。一、二時間もすれば

今度は交代して右眼と左脳を眠らせる。ただし、この場合は同胞突き出てい

る右手も一緒に休んでしまうから、ページめくりを左手にやらせるので、少

しだけ不器用になってしまう。少し驚いたのは、左脳を眠らせてしまうと、

左脳は理屈を担当する脳であるので、文字を理解する処理能力が低下するみ

たいで、読書スピードが遅くなってしまうのだ。だが、この方法ならば、今

後も睡眠なしでいつまでも読書に耽ることができるなぁと、ぼくはいたく感

動した。こんなことができるのなら、たとえば右眼と左眼に、別々の本を読

ませることだってできるかもしれないなとも思った。

 夜が明ける前に、なんとか一冊を読み終えて、さぁどうしようかと少し迷

った。今からまた読みはじめると、またしても一日中この椅子から離れられ

なくなってしまうからだ。いくらなんでも今日は仕事に出ないことには、生

活に困窮してしまうことになる。そのうち、下半身だけでできるような仕事

を探さねばなぁと思っているが、そうなると給料も一人前はもらえないのだ

ろうなと気がついて、これもまた悩みどころだなぁと思っているのだ。

                       了

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