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第八百五十三話 嫉妬 [恋愛譚]

 見慣れたはずのデスクの向こう側がいやに遠いような気がした。デスクの向こうで門田の背中が見える。その背中はなぜだか俺を拒否しているような気持ちにさせた。職場の先輩である門田はデスクの後ろにあるファイルロッカーで何か探し物をしていたのだが、目的のファイルを手にとってデスクに戻った。しばらく黙っていたのだが、おおむね仕事が終わりかけた頃に、ぼそりと話しかけてきた。

「なぁ、ミッキー。お前取引先の女性とあまり親しくなりすぎない方がいいぞ」

 ミッキーというのは俺のことだ。三木という俺の苗字をみんなそんな風に呼ぶのだ。営業主任である門田が取引先との人間関係に注意を払うことはよくわかる。だが、若い者同士で恋愛をするのは止せというのはなんだか理不尽な気がした。それに門田が誰のことを言ってるのかも俺にはよくわかっていた。

 俺がいま付き合いっはじめている静子とは確かに業務の打合せで出会った。一年前、俺が担当になる前は、門田が担当だった。静子の職場に出向くようになって最初の半年くらいは、ときどきオフィスの中で見かける彼女を遠目に見て好ましく思っていた。やがて静子が受け持つ商品を俺が扱うようになって、必然、静子と話をするようになった。聞けば門田とは結構親しくしていたようで、なんどか食事をしたこともあるそうだ。そのうち俺と静子の距離は縮まり、仕事以外でも食事に行ったり、お酒を飲んだりするような仲になった。その頃の俺は以前付き合っていた彼女と別れて二年も経っており、もう二度と恋人なんていらないと思っていたのだが、静子には次第に惹かれるようになっていった。これほどの美人に彼氏がいないはずはないと思っていたのだが、どうも男の気配がしないのだ。静子は他の取引業者とも気さくによく喋っているようだったが、いずれも仕事先として対応しているだけで、特別な関係にある男は一人もいないに違いないと考えた。

 それでも俺は何度めかのデートのときに恐る恐る訊いた。静子さん、彼氏とかいるんでしょ? うふふ。どうしてそんなこと訊くの? だって美人だから。美人だって? わたしが? もしわたしが美人だとしても、だからといって誰かとお付き合いしてるとは限らないわ。あれ? じゃぁ、いまはフリーなの? あら、そんなにさみしそうに見える? ぬらぬらとはぐらかされそうになりながらも、ようやく彼氏がいないことを白状させた。ついでに俺もフリーであることを告げ、つまりこういう確認こそが互いにお付き合いの開始を意識させる合図になるのだ。

 二度ほど食事に誘い、その後で門田もよく姿を現す俺たちがいきつけにしている店に同伴でやって来るのだから、何かしら俺たちがつるんでいることは見え見えだったと思うが、別に他の連中に知られてまずいという理由が俺にはなかった。だが、門田は仕事の取引先同士が恋仲になどなって欲しくないと言うのだ。門田は俺の先輩だ。だから仕事の上では彼の言うことがルールだ。そう考えた俺は素直にわかった、と答えた。俺は先輩である門田にとっての友人でもあり続けたかったから。

 それからひと月ほどの間に、俺と静子はついに正式に付き合いはじめる形に収まったのだが、ふたりで門田が来る店に行くことはなかった。俺は門田の言いつけを守りたかったからだし、なぜだか静子も俺たちのいきつけであり門田が来そうな店に行こうとは言い出さなかったのだ。

「静子、実はね、門田さんに妙な釘を刺されたことがあるんだよ」

 あるとき俺はあの日のことを思い出して何気なく静子に話した。

「アイドルグループのルールじゃあるまいし、業務恋愛禁止だなんて、ちょっと変だよね」

 俺がそう言うと、それまで屈託なく笑っていた静子の顔がにわかに翳った。俺はすぐには何が起きているのかわからなかったが、静子が泣き出すのを見て、ただ事ではないなと思った。

「どうしたんだ? なにか悪いことを言ったかな?」そう言うと、しばらく間をおいてから答えがあった。

「言えなかったの、どうしても。ミッキーに嫌われたくなかったから」

「え? なんで俺が」

「あのね、わたしカドさんと付き会ってたことがあるの」

 うかつだった。そんなこと、考えてみればすぐわかることなのに。俺と静子と門田さんは、トライアングルだったのだ。

「ううん。ミッキーと食事に行くようになった時には、もう離れてたの。でもね、彼の気持ちはそうではなかったみたいで……だからミッキーに言えなかった。黙ってたこと……許す?」

 許すもなにも、過去の話だ。そこは俺には関係ない。俺と静子の関係が、いまうまくいってるならそれでいいと思う。それより、これから門田とどんな顔をして会えばいいんだろう。何かと親切で俺の悩みにも親身だった年上の門田とは明日も会社で顔を合わす。あんなに仲良くしていた先輩なのに、いまはその顔が、どうしても思い出せなかった。

                                了


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