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第八百四十一話 象牙の歯ブラシ [文学譚]

 母は地から湧き出る雫のごとく愛を息子に注いだ。父は左手の二の腕から先を若い頃の事故で失ってい たが、それでも両手で母の愛を守り続けた。満里雄にとって父母の愛は享受して当然のものでしかなく、なぜ両親が我が子に愛情を捧げるのだろうかなど爪の先 ほども考えたことがなかった。おおむね世の子供というものは多かれ少なかれ親に対してはそのようなものに違いないが、それでも大人に近づくにつれ、親の苦 労を知り親の愛情の深さを慮るものであるということも世の常であるのに違いない。

 ところが満里雄はついぞ両親に対して愛情を返すことがな いまま大人になった。彼は愛を受け止める能力はあったが、どういうわけか誰かに愛を傾ける力を育むことができない人間だったのだ。満里雄の父母は息子に見 返りを求めることなどなかったであろうが、せめて粟粒ほどの感謝の発露を期待しなかったはずはない。だが、親子の愛情は一方通行のまま、両親ともに年老い る前にこの夜を後にした。

 親を失った満里雄に残されたのは、天涯孤独という境遇だった。とっくに伴侶を得ておかしくない年齢になっていた にもかかわらず、一人で暮らしていた。愛は惜しみなく注がれるものだとか、愛とは与えられるものではなく与えるものなどという言い回しがあるが、実際のと ころそれは親から子への場合であり、赤の他人同士ではなかなかそのような美談にはなりにくい。まして満里雄の場合は人を愛する能力がないわけだから、恋人 が出来るはずもなかった。

 ところが、満里雄が四十歳になった年に訪れたイタリア北東の町ベローナの土産物屋で、満里雄はあるものを見つけ た。小さな店の中に大事そうにディスプレイされていた象牙の歯ブラシだった。透けるように白い柄の先に、どのようにしてか精細に馬の毛が埋め込まれた一品 制作品で、持ち手部分は手になじむような曲線のうねりを形作っていた。満里雄はこの歯ブラシを一目見るなり、心のすべてを持っていかれたような気持ちに なった。人を愛することの出来ない満里雄が、生まれた初めて愛情を感じたのだ。親でも女性でもなく、象牙の歯ブラシに。満里雄の小遣いでは届かぬような値 段だったが、満里雄はクレジットで無理して購入して帰国の途についた。

 家に帰ってからというもの、満里雄は愛する歯ブラシを肌身離さず近くに置き、朝昼晩といわず歯を磨き、暇さえあれば触ったり撫でたり、しまいには人間を相手にしているように話しかけた。

「お前はほんとうに美しい。白い柄はまうで生きている骨のようだし、ブラシの部分だって滑らかで女性の黒髪のようだ」

「どうして歯ブラシなのだ、こんなに美しいお前が」

「口の中で踊る姿をぜひこの目で見てみたい。だが自分の口の中など見ることが出来ないのが残念だ」

 そうしてついに満里雄は神に願をかけた。

 どうか、どうかこの象牙の歯ブラシに命をお与えください。人間のように私と会話をし、ともに生きていくことが出来る存在にしてください。

 満里雄の願いが天に届いたのか、それとも不可思議な奇跡が起きたのかわからない。とにかく象牙の歯ブラシに命が宿り、意思が芽生えた。満里雄は大喜びし、神に感謝をし、象牙の歯ブラシを抱きしめて話しかけた。

「おお、象牙の歯ブラシよ、とうとうあるべき姿になったのだね。これからもずっと一緒だ。さぁ、君が命を授かってから初めての愛の行為をしよう」

 満里雄は象牙の歯ブラシに歯磨き粉を少しだけつけて、口の中に咥えようとしたそのとき、歯ブラシが叫んだ。

「いやぁ! やめて! その嫌な臭いのする汚らしい口の中に、私をくわえこまないで!」

                                了


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