第八百四十三話 見てたぞ爺さん [文学譚]
犬連れで出かけた観光地でのことだ。
「あんた、それなにをしとるんか」
一瞬、自分が声をかけられたのだとは気がつかなかった。
「あんた、それいかんのじゃ」
振り向くと、白髪の爺さんが私を睨みつけていた。
「はぁ? なんですか? 私ですか?」
私は何を言われているのか皆目わからないままに返事をした。
「そうじゃ、あんたじゃがな。いかんよ、それは」
「はい? 何がいかんのですか?」
「あんた、いま、犬を連れて歩いとったじゃろ?」
「はぁ、それが何か?」
「これが見えませなんだか?」
爺さんが指差す先には張り紙があって、「敷地内、犬の散歩禁止」と書かれている。それはさっき見て知っている。さらにその下には「犬を連れている方は、走っ て通り抜けてください」と書いてあったので、私は走って通り抜けたのだが、最後の数歩は犬がへたばったので、少しだけ歩いた。それを爺さんは見ていたらし い。
「わしゃあ見てたんじゃ。あんたが犬連れで歩いているのをな」
確かに歩いたが、それは犬が疲れたから少しだけのこと。それにもう敷地から出てるのだし、何を今さら。そう思いながら私はその通りのことを言った。すると爺さん、怒り出した。
「あんた、謝ったらどうじゃ? 言い訳する前に」
「謝るって誰に? 何故?」
「わしにじゃ。あんたはルールを破ったのじゃからな」
確かにその通りだが、どうしてこの爺さんに謝る必要があるのだろう。
「なんであんたに謝らなきゃいけないんだ? ここはあんたの持ち物なのか?」
「いいや、わしの土地じゃありゃあせん。じゃが、わしはこの観光地のためにパトロールしとるんじゃ」
なるほど、この爺さんは、持ち主に雇われて管理をしているのだな。そう思ったので、金で解決してやろうと思った。
「爺さん、ここの持ち主に雇われているのか。いくらだ?」
「い、いくらっだって? わしゃあ金などもらっておらんわ」
金の話をすると、爺さんはいっそう怒りを露わにしたので、私は一計を案じて言った。
「エライ! 爺さん、よく言った。実はね、私はここの管理会社に依頼されて、あなたのような見張り番が、ちゃんとパトロールできているのかどうかをチェックする役割で あんなことをしてみせたのです。するとあなたは見事に監視していて、犬連れで走らずに歩いた私に注意をした。お見事でした。これで私はオーナーに良い報告ができます。ありがとう」
言うと、爺さんの表情が急変して、目を輝かせて言った。
「ようやく見つけたぞ。わしは本当はあんたを見つけるためにここにいるのじゃ。最近、管理会社の名を名乗る詐欺師が出没していて困っておるのでな。さぁ、わしと一緒に警察まで来てもらおうか」
爺さんの方が一枚上手だったようだ。
了