第八百三十一話 全ろうの音楽家 [文学譚]
この音楽家が脚光を浴びて いるのは、もちろん音楽性の素晴らしさがあってのことだが、彼は全ろう者であることが世界を驚かした。彼は現代のベートーヴェンと呼ばれているのだ。十八 歳で発症し、三十歳ですべての音を失ってしまったという。自分が作り出した音さえ聴こえないという彼が何故、作曲を続けることが出来ているのか。それは、 子供の頃から養い続けた絶対音階を持っているからだという。頭の中に洗われる音を、実際に楽器を鳴らすことなく楽譜に表すことが出来るそうだ。
しかし、根治不可能な難病によって音を失った時点では、そのようなことが出来るとは思っていなかったという。音を失った失意の中で彼は自分にテストを課し た。既知の有名楽曲を頭の中で鳴らし、それを写譜してみたのだ。出来上がった写譜を、既存の楽譜と照らし合わせてみると、寸分違わず音符の再現が行われて いたという。一曲だけではなく、次々に同じテストを行ってみたところ、すべての楽曲について、間違うことなく楽譜の再現が出来たという。これによって音を 失った自分が作曲を続けることが出来るということを確信した。
それから「交響組曲ライジング・サン」を作って大好評を得、さらにそれから年月を経て幼少からの念願であった初の交響曲HIROSHIMAを世に送り出したのだと言う。
この試練の末に生まれた交響曲を耳にし、同時にこの音楽家が背負っている過酷な運命を知った私は、いたく感動し、かつ励まされた。なぜなら、小説家を夢見る私にとって人ごととは思えないからだ。
音楽家にとって耳が聴こえないことは致命的であるように、文筆家にとって目が見えなくなることはやはり致命的だと考えていた。若い頃に眼病を煩い、歳を重 ねるごとに視力が衰え続けている私が光を失うのはもはや時間の問題だと思われるのだが、そうなってしまう前に一冊だけでいいから小説を完成させたいと思っ てきた。しかし現実は厳しく、とても間に合いそうにないと感じはじめていたところなのだ。そんなときにこの音楽家の話を知った。
私はまだ目が見えているうちに、彼と同じように、自分にテストを課してみようと思った。つまり、ブラインドタッチで分泌のためのパソコン・キーが打てるかどうか。そして打ち込んだ言葉が、問題なく文章となり得ているか。
ブラインドタッチは、これまで何年もキーボードを触り続けて来たおかげで、なんとかなりそうだ。よし、いいぞ。私は目隠しをして指先の感覚だけで頭に思い浮かんだ文章を次々に打っていく……。
……こんなレスト案て軽いのんだ、渡すもむできをおこすのだ、
ソロそういい感じ得文書湯は亜八イェイルジャィア。
どれどれ、もの区田尾で、目をジョッ田尾て見てもいいだrぷ……
目隠しをとる。だめだ。私はがっくりと方を落としたのは言うまでもない。
了