第八百四十二話 ネガティブ・スパイラル [妖精譚]
大人になって会社員になったが、初出社で 黙っていたら、朝の挨拶も出来んのかと先輩に叱られた。翌朝、元気よくおはようと挨拶したら、別の先輩にカラ元気な挨拶だけじゃ仕事は出来んぞと言われ た。仕事を覚え独り立ちするようになってからは、社内でいるととっとと営業に行けと怒鳴られ、寄るまで営業に回って帰社すると、どこでさぼっていたのだと 上司に詰め寄られた。次の日から適当に得意先周りをして適当なところで会社に戻るという仕事の仕方をしているうちに、業績はどんどん下がっていった。
さらに月日が過ぎてこんな僕にも恋人が出来、所帯を持った。新婚期間を過ぎると、たまには家のこともしてよと妻が言うようになり、ならばと料理をしようと すると、台所には入らないで頂戴と言われた。身の回りの掃除くらいしてよと言うのでいいように片付けたら、こんな適当な片付け方ならしない方がましだと言 われた。給料が少ないから家計が苦しいというので、残業を増やしたら、ちっとも家に帰ってこないと拗ねられた。
こうして僕はどんどん自分 じゃない人間に変わっていって、いったい何をしたらいいのか、どうしたらいいのか判断すらできない人間になっていった。少なくとも自分ではそんな気がする のだが、酒場でこの話をしたら、なんでもひとのせいにするものではないと居酒屋の亭主に言われてはじめて気がついた。そうか、ぜんぶ自分でしてきたこと だ。自分自身でいまの自分を形成してきたのだと。
僕はもうひとの意見など聞かないことに決めた。だが社会の中にいる限り、僕がすることや 言うことに対して、誰かが必ず何かを言う。それが社会というものだから。やがて僕はなるべくひとがいない場所を選ぶようになり、その結果、いまこうしてこ の狭い部屋で一人きりで暮らすことが出来るようになった。ここでようやく本来の自分自身を取り戻せたような気がするのだ。しかし、この誰もいない部屋です ら、一日に何度か、最低でも朝昼晩の三回は、ドアのところにある小さな窓から食事が投入され、その度に白衣を着た誰かが僕に声をかけるのだ。
「おい、ちゃんと食わないと死ぬぞ。もっとも食ってても、お前はもはや死んでいるようなもんだがな」
了