第六百六十三話 五分前仮説 [空想譚]
第六百六十三話 五分前仮説
講義がはじまる前の教室は、哲学概論の講義を聴こうと集まった学生たち
の私語に満ちていてざわざわしていたが、教壇に立つ教授がマイクに向かっ
て口を開くと、しんと静まりかえった。倫理哲学の教授が言った。
「この世界は、今からほんの五分前に生まれました」
壁時計は十時五分を示していた。
「みなさんは、そんなのおかしい、自分は一時間前に家を出て、五分前にはこ
の教室に入ったんだからと、そう言うかもしれませんね」
いきなりはじまった不思議な話に、学生たちはみんな興味津々といった眼差
しで教壇に意識を集中していた。
「ですが、そうした記憶も、皆さんが過去に行ってきたと思っていることも、
この大学も教室も、すべてが五分前に一瞬にして生まれたとしたら……? こ
れは、バードランド・ラッセルという人が提唱した思考実験のひとつで、世界
五分前仮説と呼ばれているものです。世界は五分前に出来たのではない、過去
は存在するということを証明できない以上、この仮説は否定できないのです」
どういうこと? よくわかんね。ええーっ、そうなの? ううーんと……
口々に疑問をつぶやく学生たち。教授が話をはじめてからおよそ五分が経過し
たことを、壁時計が示していた。教室はまだ学生たちのつぶやきでざわめいて
いたが、教壇に立つ教授がマイクに向かって口を開くと、しんと静まりかえっ
た。教授が言った。
「この世界は、今からほんの五分前に生まれました」
壁時計は十時五分を示していた。
了