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第六百四十九話 重力 [空想譚]

 洗面で顔を洗ったあと、洗顔後の化粧水を取り出すために、目の前にある鏡

のついた扉を開いた。うちの洗面はホテルのような仕様のシステム家具になっ

ていて、シンクのすぐ上に大きな鏡がついている。その後ろが物入れになって

いるのだ。この動作はいつもの動作なので、何も考えずに行う。すると、扉を開

けたとたん、何物かが頭の上から落ちてきた。もう少しで頭に直撃するところだ

ったが、寸前避けた。その物は、ためらうことなく陶製のシンクにカタン! と大

きな音を響かせて落ちた。そのあとからもうひとつ、小さな軽いものが音もなく

落ちた。な、なんだ? 何が落ちた? 見ると、棚のいちばん上に置いてあった

小物入れにしている蓋付のガラス小瓶。シンクの中でカンコロン! と転がって

排水口のところで止まった。そのあとから音もなく落ちてきたものは、いつかの

クリスマス時期に買った、赤い服を着たサンタオジサンの人形だった。

 な、なんなのだ。なぜ、こんなものが落ちてくる? 普段さわっていない棚で

あり、その棚の上でこれらのものが移動するわけもない。棚が傾いていたの

ならわかるが、調べても棚は水平だ。私は小瓶とサンタを元の位置に戻しな

がら、まったくもう、こんなものが落ちてきたのでは危ないではないかと独り言

を言った。

 こういうことって、ときどきあるんだ。平らなテーブルの上に置いた物……タ

オルとか本とかが、知らない間にパサっと床に落ちたり、床の上に転がってい

たボールが床は水平のはずなのに転がったり。いったいどうなっているのか。

私はそういう重力にまつわる少し不思議な体験を重ねた上で、結論づけして

いることがある。おそらく、どんなものでも止まっちゃいないってことだ。動かな

いはずのものでも、実は人にはわからないくらいの超微細な動きをしているの

に違いない。もちろんその速度は物によって差があって、数分で一ミリも動く

ものもあれば、百年経って一ミクロンしか動かないものもある。また、さまざま

な外的環境によっては急に動いたり動かなかったり。こういう理由がなけれ

ば、置いてあるものが勝手に動くわけがないのだ。なぜ動くのか? もちろん

それは地球の重力だ。垂直方面にしか作用しないと思われているが、実際

には水平方向にも微妙に影響しているのだと思う。だって、テーブルの上の

ものが水平に動いて、それから下に落ちる様子を想像すれば、どう考えても

重力が下方から手を伸ばして、ずるずるっとものを引き寄せて落としている

に違いないのだから。

 ここまで推測しながら、ふと思い当たることがあった。私はマンションの二

十階に住んでいるのだが、ときどき窓の外が気になることがあるんだ。窓

から覗く下界は、それは小さく見えていて、ミニチュア世界にしか思えない

ほどなのだけど、ついそのミニチュア世界に足を踏み出したくなる。眼下

の風景に魅入られて身を乗り出し、吸い込まれてしまいたい気持ちにな

るのだ。はっと思って身を引っ込めるのだが、もしかしたらあれも重力に

よる作用なのではないだろうか。たぶん、テーブルの上に置かれた物や、

棚の上のガラス小瓶も、自ら落ちたいと思って落ちたわけではなく、窓外

を眺める私自身のように、静かに吸い寄せられて、端っこに動いていき、

そして。今も片足を窓外から引き入れながら、私は重力というものの不思

議な魔力のことを思うのだ。

                                了


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