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第六百六十五話 詩みたいな文 [文学譚]

 

 ……ぶぉーん、ぶぉおーん。肺臓の音が風のように聴こえた。呼応するかの

ように回転する壁時計の針が、わたしはこわい。
                        〜了〜
 
 
 偶然手にした短編物語を読み終えた文子はうーんとうなった。これは、小説
なのだろうか、それとも詩なのだろうか。普段はロマンス小説しか読まない文
子にとって、文学作品と呼ばれるものは苦手な部類だ。正直言って、よくわか
らないのだ。詩的な表現をしているようだだとか、ちょっとユニークな言葉を
使ってるなとかを感じることはあるのだが、だからといって響いてこないのだ。
 世の評論で価値あるものとされる小説も読んではみた。だが、前に読み進む
ことができないでいた。面白くないのだ。文子にとって、怪しげな設定とか、
いかにもありそうな場面で、考えられない男女が出会い、恋に落ち、幾度かの
ハードルを乗り越えて恋を成就させていくようなストーリーがないと、どうに
も読み進むことができないのだ。
 散文を重ねたような文体を見ては、「詩みたいな文章だなと思う。同時に
ああ、こういうのわからない、苦手だとも思う。だけど、反面ではそういう文
章が理解できない自分は馬鹿なのではないかとも思ってしまう。だからまた、
なんとか好きになろうと文学と称される小説を手にしてみるのだ。理解できな
いという事実が悔しいからだ。
 ああ、こういう文章に滲みたいな、文子は思う。身体に馴染ませて、滲
み込ませてしまえば、自分のモノになるのではないかと思うからだ。
 そう思う理由は、実はもっとある。小説好きの文子もまた、自分で物語を作
ってみたいと思いはじめているのだ。一度、短い恋愛物語を書いてみたことが
ある。だが、それはどこかで読んだことがあるような、ありきたりな物語で、
自分で読んでみても陳腐としか言えないものでしかなかった。愕然。初心者な
のだから仕方ないと言い訳してみても、自分が書いたものが死に体な文章
であると思う。やはり文章を書くことは、自分には無理なのだろうか。
 文子はそもそも負けず嫌いである。学校での成績もいつも上位だったし、ス
ポーツでも音楽でも、いつもいちばん、とはいかなくても、周囲の誰かに負け
る気がしたことがない。小説好きの人間としては、作文だって得意科目だと思
ってきた。それだけに、言葉を書き綴るなどという、いかにも簡単に思える事
が自分にできないのかも知れないと思えてしまうのは、屈辱以外の何ものでも
ない。
 負けず嫌いな人間は、往々にしてプライドも高かったりするのだが、文子も
そういう人間だった。「死に体な」日本語しか操れない自分なんて。私はいっ
 たいいままで何を読んで来たんだろう。何が小説好きだ。何が文学少女だ。
もう嫌だ。完全に自己嫌悪に陥った文子は思った。
「もう、死にたいな
                        了

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第六百六十四話 脳死 [文学譚]

「お母さん、もしも私が事故で死んだら、誰か求めている人に私の臓器を提供

して欲しいの」

 唐突な提案に、和子は戸惑いながら、娘の良子が差し出して見せるドナーカー

ドを眺めた。臓器移植という言葉は聞いたことがあったが、この難しい問題を、

娘が自分のこととして考えているとは思いもよらなかった。

「うん、わかった。世の中の役に立つことだものね」

「それにね、臓器移植するってことは、私の一部が生き残るってことじゃない? 

私の部分がどこかで生きていたら、必ずまたお母さんに会えるに違いないわ」

 高校生ともなると多感な年頃だ。もともと正義感の強い娘ではあったが、父

親が数年前に家を出て行ってしまったということが、いっそう娘を人生と対峙

させていたのだろうか。人の役に立ちたい、意義のある人生を歩みたい、良子

がそんな気持ちを持つようになったときに、ドナーカードの存在を知ったよう

だった。

 それからしばらくしてこの母娘に突然の不幸が訪れた。良子が交通事故に見

舞われたのだ。

「誠にお気の毒ですが、娘さんはもはや脳死状態に陥り、残念ですが回復する

見込みはありません」

 総合病院の病室で医師に言い渡され、和子は目の前が真っ白になった。よう

やく連絡がとれて駆けつけて来ていた別居中の夫も顔色を無くしていた。

「先生……脳死って……この子は、まだ生きているのではないのですか?」

 個室のベッドの上に横たえられた娘は、様々な管や線を纏ってはいるものの、

酸素マスクの中でちゃんと呼吸し、眠っているときと同じように活き活きとし

た顔色を見せている。とても「死」という言葉が似つかわしいとは、二人には

思えなかった。医師から突きつけられた脳死という言葉を現実と思えないまま、

娘のベッドの横から離れられないでいるのだった。

 良子は、父が帰ってくることを強く願っていた。両親の間に何があったのか、

なぜ別れることになったのか、詳しいことは何も知らされていなかったが、き

っといつか必ず、また三人で暮らせる日が来るに違いないと信じていたはずだ。

父との再会は思いがけない形で実現した。父が娘に語りかける。

「良子、すまなかった。お前にもずいぶん辛い思いをさせたんだろうな。もし、

元気になってくれるのなら、お父さんはなんでもするよ。いまからだって、き

っとやり直せると思うよ」

 言いながら父は娘の頬に掌を充て、閉じたままの瞼を指で静かに撫で続けた。

 そのとき、夫と娘の様子を涙しながら眺めていた和子が一瞬息を飲んだ。

「あ、あなた! 見て?」

 微かな悲鳴にも似た声に驚いて、和子が指差す先に視線をやって父親もまた

息を飲んだ。いままで指で撫でていた娘の目尻から、涙がこぼれているではな

いか。やはり、娘は生きている! きっと奇跡が起きたのに違いない。慌てて

ナースセンターに駆けつけ、担当医を呼び出してもらった。

「……そう思われるのもごもっともなのですが……これは単なる脊髄反射による

もので、娘さんが脳死状態であることには変わりありません。お気の毒ですが」

 再び思いもよらない医師の言葉。奇跡が起きたのだと神様に感謝したのは、

ほんのつかの間の夢に過ぎなかったのだ。

 その夜、和子は夫にある話をした。良子がドナー登録をしているという話だ。

なんでそんな。夫は絶句した。娘を亡くして、この上知らない誰かに臓器まで

差し出さなければならないものなのだろうか。娘の脳死という未だ飲み込めな

いでいる現実に眠れない長い夜、二人はこのことについて何度も何度も話し続

けた。ドナーカードに刻印された娘の名前。そして娘が自分自身で記入したサ

イン。これは、言ってみれば遺言なのだ。娘の気持ちをいま、どう受け止めて、

どう処理すればいいものか。ドナー。臓器提供。娘の命。誰かの命。娘の遺言。

不和で別れた夫婦の間で、何度も何度も同じ言葉が繰り返され、いつしか二人

の気持ちはひとつにまとまっていった。

 数日後、父親は娘の臓器を提供する書類に同意の署名をした。

「ほんとうにいいんですね」

 念を押してくる医師の言葉に揺らぎそうになったが、父親は医師の目を見なが

ら首を縦に振った。

 臓器提供にはいくつかの関門がある。まずは脳死診断書。そして本人の意思を

示すドナーカードの存在。さらに家族の同意書。それだけではない。最後に、も

う一度念入りな脳死判定検査が行われる。深昏睡状態にあること、自発呼吸がな

いこと、瞳孔反応、脳幹反射、脳波、などなど。ところが、良子は事故によって

右耳の鼓膜が破れていることが判明し、これが問題となり、最終的な脳死判定に

至ることができなかった。あれほど悩み抜いて出した決断だったのに。父母は肩

を落としたが、さらに数日後、良子の心停止によって、ようやく臓器提供が可能

になったのだった。

 葬儀を終え、ようやく悲劇の幕は降りた。良子がいなくなったいま、結局その

父親とよりを戻す理由も失った。和子は日常生活に戻る努力をした。家の中をき

れいに片付け、主のいない娘の部屋を掃除した。しばらく休養扱いにしてもらっ

ていた勤めを再開させた。通りを歩きながら、あるいは銀行の窓口で、そしてス

ーパーで買物をしながら、ついきょろきょろと回りの人の動きを気にしてしまう。

誰か自分に近寄って来る人がいるのではないか、誰かが「お母さん!」と声をか

けて来るのではないか。和子にはそう思えてならないのだ。

 あのとき、娘は言ったのだ。

「お母さん、私の一部が生きているなら、必ずお母さんに会いにいく」

                         了

Inspired by lecture of Dr.M.Morioka

参考:「娘が脳死になった」(17歳ドナーの真実)―― 脳死についての特集が1999年10月14日より中日新聞に連載】


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第六百六十三話 五分前仮説 [空想譚]

第六百六十三話 五分前仮説

 講義がはじまる前の教室は、哲学概論の講義を聴こうと集まった学生たち

の私語に満ちていてざわざわしていたが、教壇に立つ教授がマイクに向かっ

て口を開くと、しんと静まりかえった。倫理哲学の教授が言った。

「この世界は、今からほんの五分前に生まれました」

 壁時計は十時五分を示していた。

「みなさんは、そんなのおかしい、自分は一時間前に家を出て、五分前にはこ

の教室に入ったんだからと、そう言うかもしれませんね」

 いきなりはじまった不思議な話に、学生たちはみんな興味津々といった眼差

しで教壇に意識を集中していた。

「ですが、そうした記憶も、皆さんが過去に行ってきたと思っていることも、

この大学も教室も、すべてが五分前に一瞬にして生まれたとしたら……? こ

れは、バードランド・ラッセルという人が提唱した思考実験のひとつで、世界

五分前仮説と呼ばれているものです。世界は五分前に出来たのではない、過去

は存在するということを証明できない以上、この仮説は否定できないのです」

 どういうこと? よくわかんね。ええーっ、そうなの? ううーんと……

口々に疑問をつぶやく学生たち。教授が話をはじめてからおよそ五分が経過し

たことを、壁時計が示していた。教室はまだ学生たちのつぶやきでざわめいて

いたが、教壇に立つ教授がマイクに向かって口を開くと、しんと静まりかえっ

た。教授が言った。

「この世界は、今からほんの五分前に生まれました」

 壁時計は十時五分を示していた。

                          了


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第六百六十二話 サザエさん [可笑譚]

 サザエさん症候群って知ってる? 月曜の昼、同僚の山田といつもの定食屋

で昼飯をとっているとき、山田がカツ丼の上のとんかつにかぶりつきながら、辛

そうな顔をして言った。オレが、そういえば聞いたことがあるなぁと返事をすると、

少し安心したような和らいだ表情になった山田が続けた。オレ、どうもそのサザ

エさん症候群になっちゃったような気がするんだが、あれって病気なのか?

 サザエさん症候群って言葉は知っているが、それが病気なのかと聞かれても、

オレは医者でも専門家でもないので、なんとも答えようがない。オレが知ってい

ることといえば、日曜日の夕方、テレビで「笑点」を見て、「ちびまるこちゃん」を

見て、「サザエさん」を見終わったあと、ああ、もう休みも終わりか、明日から仕

事なんだということを思い出して、憂鬱になってしまう現象のことだということだ。

果たしてそれが病気なのかどうかなんて、心療内科で聞いて欲しいものだ。

 オレは山田に言ってやった。そんなことになるくらいなら、その番組をみなけりゃ

いいんじゃないか? サザエさんなんてアニメを見るからそんなふうになってし

まうんじゃないのかなぁ? すると、山田は答えた。そうか? ボクは別にサザエ

さんなんて見てないんだけれども、その、症候群になっちまったらしいよ。ふぅん、

そうか、サザエさん、見てないのか。見てないのに憂鬱になるのか。

 憂鬱という言葉に山田が反応した。憂鬱? なにそれ。ボクは憂鬱になんてな

らないよ。誰がそんなこと言った? オレはこいつ今言ったばっかじゃないかと思

いながら、だってサザエさん症候群だって言ったじゃん、と言うと。ええ? サザエ

さんって欝なのかい? と、すっとぼけたことを言う。じゃぁ、どういうことなんだい、

サザエさん症候群って。山田が答える。

「あのさぁ、ボク、またやっちゃったよ、サザエさん。ほら、もう飯食っちゃったけど、

今日、お財布忘れちゃったんだ。サザエさんとおんなじだろ?うっかりしすぎて、買

い物いくのにお財布忘れちゃうような人なんだろ、サザエさんって。悪いけど、飯代、

払っといてくれない?」

 え? そっち? サザエさんって・・・。

                                    了


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第六百六十一話 離婚の理由 [文学譚]

 外を歩けば、リポーターが駆け寄ってくる。質問はどいつもこいつも同じだ。

どうしてなんですか? 新婚当初はあんなに仲睦まじかったのに。男女の仲

に理由なんてあるもんか。好きになる時も、嫌になる時も、明確な理由なん

て、あるケースの方が少ないんじゃないの? 高政縞伸はそう思う。もちろん

表向きは様々な理由を並べ立てられるかもしれない。だが、真の理由なんて、

あるわけがない。あったとしても言えるわけがない。だが、レポーターっていう

人種は、なんとしてでも理由を知りたがるんだなぁ。なんでだ? なんで人の

そういうプライベイトを知りたがる。とにかくオレは嫌だから嫌なんだ。別れた

いから別れたいんだ。世間の人は、そんなにオレたちの離婚が気になるの

か? そんなことを知って何になるのだ? 自分たちの夫婦生活の参考にで

もしようっていうのかい? まさか。そんなわけでもないだろう。

 ただの好奇心。ただの野次馬根性。そんなのに、なんでオレが答えなきゃぁ

いけないんだ? あさってはオレたちの離婚裁判がある。だからこうして取材

の奴らが面白可笑しく世間に広めようと寄ってくる。もう、ほおっておいてくれ。

オレはもう一人になって静かに暮らしたいんだ。

 何? 澪は、妻は、何も離婚しなけりゃぁいけない理由が見つからないと言っ

てるだと? それはそうだろう。オレが一方的に離婚したいわけなんだから。何?

どうしてかって? だから! それは言えない。言えないというか、離婚したいか

らしたいんだとしか言えないんだよ!

     ☆   ☆   ☆

「ではぁ、原告側の、離婚を求める理由を言いなさい」

「……どうしても、言わなければなりませんか、それ?」

「理由がなければ、訴状を取り下げることになりますが。夫婦生活に関するこ

ととか、精神的苦痛だとか、何かあるでしょう」

「いえ、その。これを公にすると、澪に迷惑がかかるのではないかと」

「被告は、理由が見当たらないと言っている以上、あなたが思っている理由を

明確にして差し上げることが大事なのではないですかな?」

「……わ、わかりました。これは、澪のためにも、マスコミには伏せておいてほ

しいんですが……」

「うむ。それはそのように考慮してもらいましょう」

「実は……私の妻には……澪には、臍がないのです」

「何ですと? 臍がない?」

「そうです。臍がないのです」

「なんだ、そんなことか。君、裁判官の立場からではなく、個人的に申すが、

そんなもの、なぜ理由になるのかね? 盲腸の手術だとか、そういうことで

臍を失う人は結構いるぞ。それに気になるのなら、成形手術を受けることだ

ってできる」

「裁判長……何をおっしゃっているんですか? 臍がないんですよ、彼女に

は、生まれつき」

「生まれつき?」

「そうです。生まれつき、臍がない。これがどういうことだかわかりますか?」

「ううむ、どういうことかね?」

「つまり、哺乳類じゃないってことです。もっと言うと、人類じゃない」

「そ、そんな」

「そうとしか考えられないじゃないですか。彼女はたぶん、卵かなんかから生ま

れたのに違いないんです」

 澪には臍がなかった。そんなことは外見ではもちろん、服を脱いでさえしばら

くは気がつかなかった。オレたちは急速に結ばれた。だから、そんなことに気が

つく暇がなかった。さらに結婚してからわかったことは、彼女には臍がないだけ

でなく、子供の時分は親から養分を吸い取り、成人してからは最も親しい相手、

つまり伴侶である雄から養分を吸い取って存続してくという寄生種族なんだ。

突然変異なのか、宇宙から来たのか、それはオレにはわからない。だが、オレ

は、臍のない種族から一生養分を吸い取られて生きていくなんて、我慢できな

んだ! それが離婚の原因なんだ!

 澪にしてみれば、それは生きていくためには当たり前のこと。平然としてい

られるわけだ。だが、そんな生物に寄生する生物と一緒にいられるか?

「へ、臍がない! 臍がないんだ!」

 言っているうちにオレは平静さを失ってしまったようだ。叫びながら二人の

事務官に両脇から抱えられて法廷を後にした。

                              了


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第六百六十話 気分転換 [文学譚]

 煙草が好きというわけではない。最初は、若い時の好奇心。その後は習慣み

いなもの。いまとなっては、本心は不味いと感じているのに、止めてもいいな

思っているのに、なぜだか止められない。その理由はたぶん、暇つぶしであり、

気分転換の材料として喫煙しているということだと思う。

 勤務中は、ほとんど吸わない。社内が禁煙もしくは分煙になってから、席では

吸えなくなったからだ。禁煙だといわれたら、別に苦しくもなく吸わずにいられる。

だが、仕事が一段落したときには、ちょっと席を立ちたくなるし、そんなときには

ふらりと喫煙室に立ち寄って、念のために持ってきた煙草入れの口を開けるのだ。

 シュパッと火を点けて、思索に耽るか、本を持っていたら、短い時間を読書に充

てる。煙草は相変わらずあまり美味しいとは思えない。それでも喫煙室で気分転

換の時間を過ごすには、煙草は格好のアイテムになる。煙草をやらないのにここ

にいたのでは、なんだかおかしいものね。

 ところがいまに至って、喉の調子がおかしくなった。もともと喘息で、喉も弱

い質なのに、煙を吸ってきたことの方が、間違っていたのだけれど。喉に炎症

が起きてる。医師は、ははぁ、赤くなってますね、アレルギーでしょうという

し、なにより煙草がいよいよ不味いと思うようになった。しかし、仕事の合間

に気分転換するという習慣は止めたくない。これは、自分のペースと仕事効率

に関わるものだから。

 煙草を持っていないのに、相変わらずふらりと喫煙室に立ち寄る。おもむろに

ポケットから小さな鉄のトレイを取り出しか、そこにある小さな塊を乗せてラ

イターでシュパッと火を点ける。お香だ。煙がスーッと上がって、好みの香り

が広がる。煙草じゃないから仕事場で火を点けても良さそうなものだが、香り

の好みもさまざまなので、そうもいかない。喫煙室なら、同じように煙を出す

ものだから文句はないだろうと勝手に決めつけて、お香を焚き終わる五分ほど

を、やはり思索や読書の時間に充てるのだ。煙を吸い込むわけではないので、

喉もやられないし、気分は落ち着くし、申し分ない。ところが、しばらくするとや

はり、喫煙室で煙草以外の匂いがするという苦情がきた。社内の衛生委員会

から注意を受けた私は、お香は諦めて、匂いのしない小さな蝋燭に火をつけ

るようになった。蝋燭からはあまり煙は出さないが、その揺れる火を眺めてい

るとなんとなく心が安らぐ。明るい喫煙室の中でさえだ。その炎の横で私は本

を読んだり思索をしたりする。匂いもしないし、煙もない。これで誰か文句を言

うような人が出てきたら、次は部屋に火をつけてやるぞ、そう思っているのだが、

どうだろう。禁煙に苦慮しているあなた、お香または蝋燭、どうですか。

                                                     了


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第六百五十九話 朝陽の中で [文学譚]

 朝はほとんどみんな同じ時間に目が覚める。家族三人が大きなひとつのベッ

ドで身を寄せ合うようにして眠っているから、誰かひとりが起きだすと、その動

に眠りを妨げられてほかの者も一緒に目を覚ますのだ。順番に起きだして、トイ

レや洗顔やそれぞれの身支度をした後で、最終的にはキッチンに集まって家族

緒に朝食をとる。だけどたいていはみんな朝は寝起きが悪く、のそのそと起き

るためにギリギリになっちゃうから、つけっぱなしのテレビで時間を確認しながら、

お母さんがてきぱきと用意してくれたご飯をさくさくっと食べる程度。特にお父さん

は会社までが遠いから、ほんとうに時間がないときには、トーストを口に突っ込ん

だままネクタイを締め、ドタバタしながら先に出かけていく。

 その点、お母さんは自転車で行ける近いところで働いているから、少し遅れて

を出る。手早く食卓を片付け、戸締りを確認してから玄関に向かう。ボクが後

を追と、優しい声でなだめるように言うのだ。

「お仕事に行ってくるから、今日もお利口さんにして待っててね。お母さん、すぐ

に帰ってくるから、賢くね」

 待って、待って、一人にしないで。ボクも連れてって! 僕は玄関先で叫ぶん

だけれども、お母さは唇に指を当てて、しっ! と言いながら扉を締めて出か

けてしまう。あーあ、今日もまた置いていかれた。もう! 朝のお散歩は今日も

なし! まったく、困った親だね。仕方なく僕は、ベッドのところに、今度は一人

で戻って、二度寝するのだ。ボクって何? ボクって犬

                               了
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第六百五十八話 末期 [文学譚]

 母が末期癌で余命宣告を受けてから、私はしばらく母のそばで暮らすようにな

った。それまで母は一人暮らしをしていたのだが、罹病して、もう治らない病気で

あると悟ったときに、病院での延命治療を受けたくないと言った。宣告された余命

を自宅で穏やかに過ごしたいと考えたのだ。在宅医療を望んだ母のために、私

は仕事先に休暇願いを出して母の看病体制に入った。

 余命は一年ということだったが、告知後半年もするといよいよ病状は進み、在

宅医療だけでは慢性化する痛みや溜まり続ける胸水に対応しきれなくなった。

そこで、近隣のホスピス系の看護も引き受けてくれる病院を紹介してもらい、そこ

の緩和医療病棟で数日間世話になることで対応した。しかし、それさえも、母にと

って入院することそのものがほんとうは不本意だったようだ。

 ちょうどその頃の私は、夫婦間にも問題を抱えていたのだが、余命短い母には

そのことを伝えられずに自分の心の中だけに留めていた。母が元気であれば、

相談したいことは山ほどあったのだが、病床の母には自分のことだけを考えてい

てもらいたかったのだ。

 母につきっきりで看病をしていると、「あんた、家は大丈夫なの?」と、母は私の

仕事や生活を案じ、夫のことを気遣った。そんな母の手前、夫と不仲であることを

悟られないために、月に一度ほど、別居中の夫に頼んで見舞いに来てもらった。

そうしないと、旦那はどうしてるの、見舞いに来てくれないの、などと勘ぐられ、鋭

い母のことだ、別居していることが悟られてしまうと思ったのだ。

 七ヶ月が過ぎた頃。母の病状はさらに進み、麻薬系の痛み緩和を行うまでにな

っていた。そんな緩和剤のおかげで朦朧としている母は、目覚めたときに偶然見

舞いに訪れていた夫に、重要な言葉を告げた。

「娘を……よろしくお願いしますね。あの子は昔からわがままで、夫であるあなた

にはずいぶんと迷惑をかけることだろうけれども、仲良くして暮らすのよ」

 傍で聞いていた私は胸が痛んだが、夫は微笑んで何度も頷き、私に目配せをし

ながら帰っていった。

 その翌日、母が今度は私に向かって言った。

「……お前、お前はほんとうは私の……では……」

 とても気になる言い方で、しかも途中で止めてしまった母の言葉に、何? と聞

き返したが、「いや、なんでもない」と言葉を濁し、そのまま昏睡状態になった。そ

してまもなく母は逝ってしまった。

 母は私に何を言おうとしたの。あの言葉の意味は? 死ぬ間際になぜあのよう

な言いよどみを? しかし、もはや真実を聞くことはできないのだ。

 私は、ほんとうは母の……何なのよ。

                          了


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第六百五十七話 窓際 [文学譚]

「もう少し若い人に任せてやったらどうかね?」
 部長代理がそういった。イベント企画会社の主要クライアントを担当するチ
ームのリーダーであった私は、判断が早いと周囲からは評判で、我ながら仕事
も早く業績にも貢献できていると自負していた。だが、部下の中には私のやり
方に不満を持っている者もいたようだ。サブリーダーである白石という男が、
現場を任せてもらえないからモチベーションが上がらないのだと部長代理に告
げたのだ。企画力を旨とする会社においては、自分で考えた企画案を採用され
てこそ意欲が増すというものなのだが、クライアントの意向を知り尽くしてい
る人間としては、部下たちの安易な発想から生まれた企画で良しといえるもの
はなかなか選択できないでいたのだ。
 だが、私は上司からの忠告を素直に聞き入れた。それまで厳しく保っていた
自分の考えを少し曲げてでも、部下の意見を採用するように改めたのだ。
 そのときから私は、できる限り若い人の発案による企画を採用するようにつ
とめ、むしろ、私自身は意見を控えて彼ら自身に自分たちの企画を選ばせとい
うスタイルに変えたのだった。しかし、自分を抑えて部下の意思を優先すると
いうことは、私にとってストレスをためる原因になった。そうするうちに今度
は自分自身のモチベーションが下がって来ていることに気がついたのだ。やは
り私は現場が好きなのだ。
 一年も過ぎた頃、私に申し付けをした部長代理は転勤でいなくなり、私はそ
の上の室長に呼ばれた。
「君は仕事を部下に任せっきりであまり現場に興味がないそうじゃないか。ま
あ君も、もう充分にやってきたから現場には飽きたのかな? それもよかろう。
ま、そういうことを慮ってだなぁ、そろそろ君はチームから外れてもらっても
いいんじゃないかな」
 私は長年育てて来た業務チームからはずれ、一線を退くことになった。後任
リーダーには後輩の白石君がなった。そして私はいま、日長一日、窓の外を眺
めて過ごしている。私がいままで会社のためにしてきたことは何だったんだろ
うと思いながら。
                         了

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第六百五十六話 識別 [空想譚]

 近所の公園を散歩していると、いつもたいてい誰かが愛犬を散歩させてい

る。時間帯によってはそういう人たちが何組もいて、公園はさながら愛犬サー

クルの集会のようになっている。なぜ集会にみえるのかというと、みんなが同

じ種類の犬を連れているからだ。

 最近よく見るのはミニチュアプードルという種類。ミルクチョコレート色が人気

のようで、同じ色をしたミニチュアプードルを連れた人達が一箇所に集まって

仲良くおしゃべりなどしている。

 同じ犬を飼っていても、飼い主は千差万別で、お洒落な人もいれば、そうで

もない人もいる。男も女も、年寄りも若いのも、みんなリードの先には同じ犬が

つながれているのだが、犬の方はといえば、私から見ればみんな同じに見え

る。同じ犬種、同じ色、似たようなサイズであれば、ほとんど見分けがつかな

いのだ。とくにこのミニチュアプードルやミニチュアダックスのような小型犬は。

 一度、テレビで実験をしているのを見たことがある。それは、同じ犬種の飼

い主を集めて、ドッグランに飼い犬を放してしまう。似たような犬が走りまわっ

ている中から、自分の飼い犬w探すことができるかというものだった。あのと

きは、そう、パグだったかな。みんなへチャゲたような顔をして、身体には模

様のないベージュ色の犬。こいつもみんな同じに見える。ところが、飼い主

はちゃんと自分の飼い犬を探し出すことができた。他人から見て似ていて

も、家族として育てている人には、違いがわかるんだろう。

 人間はどうなのだろうと思う。犬種が違えば識別できるように、人間でも

人種が違えば、もちろん識別できる。ところが、同じアジア人だとどうか。

アジア人同士ならわかるが、西洋人から見ると似て見えるのだろう。日本

人だけならどうか。外国人から見ればみんな同じに見えるに違いない。

 だが、同じ日本人同士で見れば、実際にはそっくりな人はそれほど見つ

からない。みんな個性的な顔や身体をしているように思うのだが。思うにこ

れは、様々な種族が雑種交配した結果だと思う。つまり、交配前の純血種

をたどれば、モンゴロイドの純血種、南方系の純血種、アイヌの純血種など、

血が混じらない単一の民族がたとすれば、それはもしかしたら、私にとって

のミニチュアプードルと同じように見分けがつかないのではないか。

 逆にいえば、よく似た顔の人は、元をたどればきっと同じ民族の血を引い

ているに違いない。こう考えて、私は長年、自分とよく似た顔の人を探し続

けてきた。似た感じの人間はたまに見つかる。だが、よく観察すると、決定

的に違うことがあるので、やはりその人は自分の種族の血が混じっている

のかもしれないが、やはり同じ血統とはいえないんだろうなとがっかりして

しまう。決定的な違いは、髪型で判断する。私に似た顔をしていても、頭髪

の生え際が顕にされていれば、ああ、違うなとわかる。なにしろ、生え際を

髪で隠していなければ、きっと人からは恐れられてしまうだろうから。

 もうお分かりかと思うが、私には頭髪の生え際あたりに一対の角がある。

小さな出っ張りではあるが、削ってもまた伸びてくる。これは私の血統を明

らかにする大きな特徴だ。だが、この特徴は日本古来の鬼伝説と符号し

てしまうがために、公にし難いと思っている。もし公にしたとすれば、もは

や私は、そして私と同じ特徴を備えた人間は、もはや人類ではないと阻害

されてしまうに違いないから。鬼族。そう呼ばれるに違いないから。

                          了


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