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第五百四十一話 乾き [文学譚]

 白い人造大理石でできたカウンターテーブルの上に、百円均一ショッ

プで購入したグラスを置く。なんの変哲もないグラス越しに見えるカウン

ターの縁が一段下がって見える。何も入っていないグラスが、ちょうど凹

レンズの役割を果たしてそのように世間を歪ませるのだ。グラスの向こう

は一段下がっているだけではなく、一回りかふたまわりほど小さく見える。

これもレンズ効果だ。ぼくが見ている世界は、グラス越しが正しいのか、

それともグラス越しじゃぁない保が正しいのか、ふと妙な考えが頭に浮か

ぶ。

 グラスがあるのに、中には何も入っていないというのも不自然なので、

グラスの七分目ほどまで水を入れてみた。すると、いままで下がっていた

カウンターの縁が、今度は一段盛り上がりひとまわりかふたまわり縮ん

でいた世間が、今度は少し膨らんで見えた。水を入れられたグラスは、

人生を一転して凹レンズから凸レンズへと生き方を変えてしまったのだ。

空っぽだった部分に水が入っただけで百八十度も役割を変えられるその

身代わりの早さ。人の生き方もそんな風であれば、どんなにか楽なこと

だろう。それはともかく、グラスの向こう側は大きくなったもののやはりぐ

にゃりと歪んだ感じは否めず、もう一度ぼくはさっきの凹レンズで歪んだ

世間と今回の凸レンズで歪んだ世間、そのどちらでもない世間の、いっ

たいどれが本当の世間なのだろうと思った。

 水が入ったグラスの表面には、すぐさま白いくもりができたのだが、そ

のくもりが次第にある種のテクスチャーに変化しはじめている。そう、グ

ラスに入れた水は冷水だったからだ。冷水を入れられてぬくぬくと過ご

していたグラスはいきなり冷たく体温を下げ、その結果、体内と体外の

温度差によって生じるくもり、いわゆる冬場の窓に発生する結露のよう

なものを生じさせたのだが、最初はきめ細かい霧のような水滴だったも

のが数秒の後には水滴同士がつながり合うかのように目に見えてドット

状の水滴に変わり、その中のいくつかはさらに大きな水滴として連合を

組んだために、自らの重みに耐え切れず、垂直に立ち上がっているグ

ラスの表面をつるつると下降していく。人の手を借りずして自然に動き

はじめる水滴は、まるで生き物のようで、よくよく静かに眺めていると、

不気味ですらある。誰の手助けも、なんの動力も持たずに、なぜに動

くのか? 私は重力に対していつも不思議な感慨を持つのだが、今も

水滴に対して同じような奇妙さを感じてしまったのだ。

 ああ、それにしても喉が乾く。このカウンターテーブルの上に置かれ

たグラスの水を、ぐびっと飲んでしまえたらどんなに美味しいことだろう。

飲めばいいじゃないか。飲んでしまえ。心の中の悪魔がそう囁くのだが

そうはいかない。これは水じゃないのだ。いや、正確に言えば、ここには

水などないのだから。

 数年前から起きていた地球規模での異常気候。そしてひと月前になっ

てついに訪れた大干ばつと大飢饉。干上がりゆく海の水を飲んで命を失

った人間もずいぶんいる。私も倉庫に残っていた僅かばかりの缶詰や飲

料でひと月をしのいだが、ついに一昨日から何もなくなってしまった。いま

我が家のキッチンに座って、目の前に置いたグラスの中に見えた幻影は、

心を震わすことはできたとしても、身体に取り込むことは決してできないの

だ。

                               了

※二週間で小説を書く!(幻冬舎新書/清水良典著)の「グラス描写」課題として

2週間で小説を書く! (幻冬舎新書)

  • 作者: 清水 良典 出版社/メーカー: 幻冬舎

発売日: 2006/11


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