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第五百二十九話 名札 [日常譚]

「山本くん、ちょっと」

 上司に呼ばれて、俺が席まで行くと、 

「これ頼むわ」

 書類のコピーをしろということだった。なんだ、こんなものくらい、自分で

すればいいのに。だが、この会社での山本の仕事の中には、暗黙のうち

にそういう雑務も含まれているということらしいので、俺は黙って書類を受

け取った。

 俺は首からカードフォルダーをぶら下げていて、その中には個人名と会

社名、顔写真が印刷されたIDカードが入っている。プライバリーマーク制

度などというものが出来て以来、どこの会社でも、規模の大小にかかわら

ず、みんなこんなカードを首からぶら下げている。

 名札というものは昔からあったが、小さな会社で採用されていることは少

なく、一方、大手企業に勤めている俺たちには苗字入りの名札が配られて

た。だが、いくら人数が多いといっても、社内の人間の顔と名前くらい、み

な知っているから、そんな名札など、付けたことはなかった。

 だが、プライバシーマーク制度以降は、このカードが会社の中に入るため

に必要なカードキーになっていることもあって、身につけておくこてゃ義務に

なってしまった。ところが、そんな大切な名札なのに、何かの拍子に紛失して

しまうことがある。あってはいけないことではあるが。俺の場合は、酔っ払っ

たときに、バッグの中から滑り落ちてしまったらしい。だが、幸運なことに、紛

失に気がついた直後に、道端に落ちているそれを、俺は拾うことが出来、翌

朝、会社に紛失届けを出すこともなく、問題なく勤務を続けることが出来てい

る。最も、心ある人間に拾われた場合、名札には社名も記載されていること

だし、ちょっと調べたら簡単に会社まで届けることだって出来るはずなのだが。

「山本くん、悪いがお茶、頼んでいいかね?」

 今度は部長がそう声をかけてきた。俺は、かしこまりましたと言って、給湯室

に向かう。そのくらい簡単なことだ。

 給湯室に行くと、先客があった。隣の部の清川さんと瀬川さんだ。

「あら、山本さん、なんだか雰囲気変わったわね。痩せた?」

 そんなことはない。太りこそすれ、痩せたりなどしていない。

「ああ、今日はパンツルックだからスリムにみえるのかもね。山本さんって、

パンツスーツは着ないのかと思ってた」

 何を着ようが俺の勝手だ。何を言ってるのだ。そう思ったが、ここは社内コ

ミュニケーションのツボとなるところ・

「あら。私だって、たまにはスタイルを変えるよ。これからはずーっとこういう

のかも」

 こう言って、ニンマリと笑いかけ、部長の湯呑にお茶を入れ、トレイに乗せた。

 俺が首からかけているカードには「山本幸子」と名前が刷り込まれている。こい

つが、どこの誰だか、俺は知らない。だが、このIDカードを拾って首から下げたと

きから、俺が山本幸子になった。もともと俺が下げていたカードだって、今頃は誰

かの首にかけられているかもしれない。

 生身の本人よりも、個人情報が盛り込まれたIDカードの方が信用に足る。情報

時代の現実なんて、案外こんなものなのだ。

                                    了

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