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第五百四十話 瞬き [文学譚]

 もともと極度の近眼で、メガネかコンタクトなしでは普通の暮らしを営めな

い。いや、一人で暮らしていくだけなら、視力を矯正しなくとも暮らせるが、

普通の人間なら仕事にも出かけるし、近所づきあいもあるではないか。つ

まり、裸眼のままでは少し離れたところにいる人間を区別することが難しい

のだ。だから、四六時中コンタクトか眼鏡を使って視力を矯正している。だ

が、大学生のときに網膜剥離という病気にかかって、失明しそうになった。

突然視野の中に虫のような翳ができて、なんだろうと思っているうちにみる

みる虫の存在が肥大化、気が付けば視野が半分になっていた。驚いて総

合病院の眼科に駆けつけ、診察を受けたら、即入院という事態になった。

網膜剥離とは、眼球の打撲や極度の近眼によって眼球が変形し、その変

形について行けなくなった網膜がべろりと剥がれてしまうという病だ。網膜

とは、目に映ったものを映し出すスクリーンのようなもので、これが一旦剥

がれてしまうと、二度とは元に戻らず、失明してしまうのだ。幸い、手遅れ

になる前に診察を受けたので、レーザー手術という処置を受け、一ヶ月の

安静を保つことによって失明を免れた。

 レーザー手術とは、剥がれかけた網膜をレーザー光線で元の位置に焼き付け

るという手術だ。これによって失明はしなかったものの、レーザーで焼かれた部

分には皮膚と同じようにケロイド状の傷跡が残る。この傷跡が網膜の端っこの

方ならほとんど問題はないのだが、私の場合は、その一部が視野の中核部分

にかかっていた。だから、失明、すなわち光を失うことはなかったが、たとえば

文字を読むときに必要な中心部分が少し引きつっているために、見えてはい

るのだけれども少し歪んでいるという現象が残った。これは片目だけであった

から、生活に支障はないのだが、もしも両眼ともに同じことになっていたなら、

私は二度と文字を読むことはできなかったかったかもしれない。

 結局、極度の近眼の上に、片眼がこのようなことになっているので、目は見

えているのだが、どうにも感度が低いという中途半端な機能障害を持っている

と言わざるを得ない。視力検査上では眼鏡による矯正が可能であるので、身

体障害者手帳をもらうほどのことではないのだが。この、目の不確かさに負う

ものなのかどうかはわからないのだが、私にはもうひとつ視力に関する弱点

がある。目に映っているのに気がつかない、とうケースがよくあるのだ。これ

はむしろ注意散漫とでもいわれるような、心的要因なのだろが、視野とか視

力にも関係することには違いない。

 知人からよくクレームをつけられる。こないだ道ですれ違ったのに、無視し

たねなどと。ええー? それってどこで? いつのこと? 昨日、大通りで。え

えー?! 気がつかなかったなぁ! ええっ? 目の前で両手を振ってるのに気

がつかないなんて! これは、嘘みたいだが本当なのだ。 つい最近も、家の

近所で兄とすれ違ったのに、まったく気がつかなかったらしい。これほど極端に

認知度が低いのである。こういうときはたいてい何か考え事をしているか、ほ

かのことに気を取られていて、視界に入っている誰かのことなどまったく気が

ついていないのだ。

 この話とは別に、もうひとつ困ることがある。これはむしろ、心的な問題で

はなく、視力の問題だとは思うのだが。少し離れたところにいる人物が、私

を見ているのかどうかが分からないのだ。知らない人であれば、私を見て

いても無視していればいいのだが、顔見知り程度の人の場合、無効が私

を認識して、挨拶がわりにアイコンタクトしてくる。なのに、私にはそれが

私に対するアイコンタクトなのか、あるいは私ではない何かを見ているの

かが判断つかないのだ。下手にアイコンタクトを返してしまって、向こうが

まったく違うものを見ていたということが度々あったのだ。だから、私は相

からの視線を感じても、注意深くそれとなくその視線の先を確認する。私な

のか、私の横なのか、後ろなのか。そうして二、三度相手が私を見直して

はじめて、ああ、私にアイコンタクトを送っていたのだなとわかる。

 この間も、電車の中で視線を感じた。いつも乗っている列車であるので、顔

見知りがいるのかしらんと思って視線の先を探るが、知った顔はいない。小

学生と老人で占められている座席の横に私は立っていたのだが、車両のちょ

うど対角線というべきところ、つまり私が立っているドアとは反対側の一座席

向こう側に、私と同じくらいの年格好の男性がサングラスをかけて立っている。

はて、知り合いだろうか? いやいやこんなイカした知り合いはいない。しかし、

どうにもこの男が私に視線を向けているような気がしてならない。いやいや、

下手に視線を送り返すことはできないぞ、そう思っている間にも、彼は私を見

ているような気がする。卑怯なことに彼は、本を読見ながら、時々こっちを見

ているように思えるのだ。

 まさか、あんた私を見ていた? などと妙な言いがかりをつけるわけにもい

かず、無視することに決めた。無視を決めて、視野に男が入らないように身

体の向きを変えて立った。と、その直後に再び視線を感じて思わず男の方に

顔だけ向けて驚いた。男がしっかりと私を見据えながら近づいてくるのだ。な、

何? やはり私を見ていたの? 男は一歩、二歩、動く車両の中を私の方へ

と歩いてくる。その動作は時間が止まったかと思えるほど緩慢で、一歩踏み

出すのに数百年は要したかと思える程だ。だが、男はもう目の前に迫ってい

る。なんなのだ。私を知っているのか? それとも軟派? 軟派などもう何年

も……いや、嘘。いままで生きてきた私の人生で一度も、軟派なんてされた

ことがない。私は決してブスだとは思っていないが、かと言ってとびきり美人

でもないし。ましてこんないい男からアイコンタクトされたことんて。心臓の鼓

動が聞こえる。周囲のざわめきが消えた。電車が走る音が聞こえない。電車

はまるで止まっているかのようだ。男は私の隣までやって来ている。電車

……いつの間にか停車している。私の側のドアが開く。男は私の横を通り過

ぎて、そのまままっすぐ、私の後ろのドアから下車した。                                                     

                                了

※二週間で小説を書く!(幻冬舎新書/清水良典著)の「時間を伸ばして書く」課題として

2週間で小説を書く! (幻冬舎新書)

  • 作者: 清水 良典 出版社/メーカー: 幻冬舎

発売日: 2006/11

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