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第五百二十七話 蔵シリーズその5-ゆめくら [文学譚]

 埃ををかぶった百科事典が並んでいる、その隣には中学校と高校の時の教科

書と、赤い表紙の大学入試問題集。絵画や書道の表彰状は額縁の中に何枚も重

ねられている。ずーっと奥に行くほど、幼い子供が使うものたちが寂しそうな

顔をして並んでいる。かつてはみどりちゃんと呼ばれたことがある手作りの布

人形。弟がよく遊んでいたラジコンカー。兄弟が初めて父親からもらった鉄道

の玩具。ああ、あれはなんだろう。段ボール箱がいくつも。中を開けてみると

古いノート。ああ、そうだ。あの頃の私は日記をつけていたのだ。

 ノートを開いてみると、幼い文字がぎっしりと並んでいて、そこには形

のない思い出が貼り付けられている。それらの記録の大半は、既に忘れ去

られてしまっている日常の記憶。兄や弟たちの幼い姿。家族の思い出。若

き父母たち。このとき初めて、自分自身があの頃の父母の年齢をとうに飛

び越えてしまっていることを思い出す。そして自分の両手に目をやって、

深い皺が刻まれた手の甲や筋だらけの爪を見て、そこにもまた形のない記

憶が刻まれていることに気づく。半世紀近く生きてしまった生き物がこの

世に遺すことができたのは、たったこれだけのものなのだと悟ったとき、

私は知らず、生と言うものの儚さや残酷さを目にしたような気がした。死

を目前にした寝台の上で目を閉じている私は、夢のように過ぎてしまった

自らの生涯を呆然と眺めているのだった。

                       了

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