第七百十八話 学校 [文学譚]
昨年の春から学校に通いだした。もういい歳だというのに、何をいまさらと
思われるだろうが、夫の定年退職時期を間近に控えて、いろいろ考えてみたの
だ。いままであまりにも安穏と過ごしすぎた。なんでもない日々をただ、ただ、
過ごすだけに明け暮れた毎日。子供も巣立ってしまい、年寄りだけが取り残さ
れた家の中で、自分の人生になにを刻むでもなく歳だけ刻んできてしまったと
いうことに気づいたとき、そこに残された思いは虚無感だけ。この上夫が職を
離れてずーっと家にいつくようなことになってしまっては、もう自分の居場所と
いうものがなくなってしまうのではないかと畏れた。
何かをしなければ。いや、まずは何かをはじめる準備をしなければ。気持ち
ばかりが焦りはじめ、なにをどうしようかと迷い続けていた頃に目に飛び込ん
できたのが学校の存在だった。こんな学校があるなんてぜんぜん知らなかっ
た。もし、知っていたらもっと早くから行っただろうか。いや、それはないかな。
自分の興味がそこには向かっていなかっただろうから。昔なら、手芸だとか、
絵画だとか、詩歌だとか、そんなことを習いたいと思っただろう。いま、夫の定
年が迫ってきているいまだからこそ、この学校に行きたいと思うのだ。
夫にはほんとうのことを伝えていない。絵画教室だと嘘をついている。だって
知られたらたいへんだもの。間違いなく非難されるだろう。そんなことを習って
どうするつもりなんだ。俺をモデルにするつもりなのか? いえいえ、あなたは
モデルなんかじゃありませんよ。あなたは標的です。定年退職して家でごろごろ
されるくらいなら、その前に私はあなたをなんとかしたいのよ。だからこの学校
に行くことにしたんじゃないの。
私はバッグの中に隠している教則本を取り出してひとりにんまり笑を浮かべ
る。学校を終了して、いよいよ実践するその日のことを思い浮かべながら。裏
に殺人学校刊と書かれている教則本のタイトルは「誰でも簡単、ヒト殺し」。
了