SSブログ

第七百十六話 馬鹿息子 [文学譚]

 大学は八年通った。学問が好きだったからではない。やりたいことをそのま
ま続けていくのに好ましい環境だったからだ。もちろん親は喜ばなかった。地
方の名士である父親は、俺を勘当同然に扱った。当然だと思う。逆の立場な
ら、俺だってそうしただろう。そうでなくとも金のかかる私立大学に通わせ、生
活費まで仕送りしているのに、本来の勉強などそっちのけでラッパばかり吹い
ている馬鹿息子には参っていたことだろう。俺は芸術科というよくわからない
学科に身を置きながら、芸術を学ぶわけでもなく、ひたすらラッパの芸を磨き
続けた。父親は何度も叱責の手紙を寄越したが、すべて無視し続け、四回生
になっても敢て単位を落として大学に居残った。流石に六回生になる頃には
仕送りは途絶え、俺は自らの手で生活費を捻出しなければならなかった。
 だが、幸いライブハウスなどでラッパを披露する場に恵まれ、それはいわゆ
るバイショと呼ばれる、つまり商売のことだが、いくばくかの金になり、何とか
酒代にさえ当てることができていた。
 大学はラッパの練習をし、音楽仲間と過ごす場にしか過ぎず、こうして八年
間を過ごしたあと、俺はプロミュージシャンという肩書きを自ら冠してジャズ
を奏でる店を仕事場に点々と流れ続けた。
 学生バンドに発してプロになる者は多くはないが、それなりにいた。音楽が
好きで仕方のない、どうせ社会に出てもやっていけないと自分で信じている
奴らだ。もちろん俺もその一人で、ジャズなんかでとても生きてはいけない
だろうと皆から言われたが、違う。ジャズでなければ生きていけなかったの
だ。
 幸いにも、卒業する頃には、この辺りのジャズ好きならたいてい俺の名前
くらいは知っているという存在になっていたから、出演するステージにはさ
ほど困ったことはない。とはいうものの、ジャズそのものがマイナーな文化
であり、ほかのアルバイト、たとえば道路工事なんかも大いにやらねばなら
なかったのはいうまでもない。
 プロミュージシャンなんていうと、とても華やかなイメージだけが伝わるよう
だが、ジャズに限ってはそのようなことはない。国内でジャズミュージシャン
としてメジャーで活躍できている人間は、数少ない。俺だってそうなりたいと
思わないわけではないが、そんなことよりも、ただただラッパを吹いていたい
だけなのだ。だからラッパから遠ざかる肉体労働は嫌でたまらず、トランペッ
ト教室という仕事を得るまでには随分と時間がかかった。
 地下にあるライブハウスで地道に演奏をする。それでワンステージあたり、
多くはない収入を得て食費と酒代に当てる。その内珍しく俺のファンになって
くれた女性と懇ろになって彼女の部屋に転がり込んで、暮らしは少しだけま
ともになった。父親はもはやはがきすら送って来なくなっていたが、俺がプロ
になって十年目に勘当を解かないまま逝ってしまった。
「それだけの技術があるなら、レコーディングの誘いもあるのではないか」
 そういう人が何人もいるが、ジャズ人口の少ない日本では、なかなかその
ような話はやってこなかった。ローカルにい続けているということも理由のひ
とつだったのかもしれないが。だが、チャンスというものは、そのうちくるもの
だ。
 狭いレコーディングスタジオでマイクにラッパのベルをマイクに向け、静かに
マウスピースの中に息を吹き込む。仲間のピアノを背中に、テナーが絡む。
アイ・ウォント・ダンス。踊りたくない。かつてはフレッド・アステアが歌ったアッ
プテンポの曲をゆったりとメロディアスに再現する。踊りたくないと歌いながら
アドリブは自在に踊ってみせる。ノスタルジックで少しアンニュイな雰囲気を
楽しませるナンバーとしてスタジオのハードディスクの中に吸い込まれていく
俺の息の音。
 これが俺の初リーダーアルバムになる。これまでライブハウスに立ち込める
煙草の煙と共に消え去っていた俺の音は、ようやく形あるものとして世に出る
ことになった。プロになってから実に三十三年目の冬である。
                          了 
                        ~師匠: 唐口一之さんに謹呈する
I Won't Dance(アイ・ウォント・ダンス)

I Won't Dance(アイ・ウォント・ダンス)

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: nano peaks(ナノピークス)
  • 発売日: 2012/09/19
  • メディア: CD

読んだよ!オモロー(^o^)(16)  感想(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。