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第九百六十九話 年上のクラスメイト [文学譚]

「学校出たらどうすんの?」

 半年前に入学して早くも半年が過ぎた。この短い期間であっても同じゼミの中でもいつも一緒にいる奴とそうでないのとに分かれている。俺たち三人はどういうわけだかゼミのある日はいつも一緒に学食で昼飯を摂るのだ。いつもはいかに楽に単位の取るかとか、代返で儲ける話とか、女の子の話とか、たわいのない話に終始するのだが、今日はどういうわけかマナブくんが将来の話を投げかけてきた。

「ぼくは、マスコミに行きたいんだ。できれば放送業界」

「マスコミかぁ・・・・・・どうなんだ、いまは。昔は人気あったらしいけど」

「いや、いまだって人気だよ。時に女子アナとかさ」

「お前、女子アナになりたいんか?」

「ああ、できるんだったらな・・・・・・男だけど。で、マナブくんは?」

「俺は銀行に入ってさ、二倍返しし続けて頭取を目指すさ」

「ふーん。この厳しい時代かぁ……ドラマの見過ぎじゃね?」

 聞いていた鈴木が口をはさんだ。

「銀行、いいんじゃないの? 今だから、時代を動かせるのかも」

「なんだ鈴木、知ったような事をいうなぁ」

「さすが! じっちゃん」

 鈴木は皆より年上だ。だからじっちゃんなんて渾名をつけられてしまった。

「で、じっちゃんはどうすんの?」

「わしか? わしはなぁ・・・・・・」

「なんだよ、お前にだって将来の夢ってあるだろ?」

 鈴木はギュッと口元を堅くして考え込んでいる。ぼくらふたりは、なんだかいけないことでも聞いてしまったような気がしてきた。大学に入ったばかりのティーンエイジャーには誰にだって将来の夢がある。もちろん、中には先のことなどなにも考えていないような者もいるだろうが、それでも金持ちになりたいとか、女と遊びまくりたいとか、海外に住みたいとか、なにかしら思い描いているものがひとつくらいはあるだろう。なんせ若者には無限の可能性があるのだから。

 若い頃には無限だと思っていた可能性は、大学を出て就職する頃にはガクンと数が減って片手で数えられるほどに絞られる。そしてそこから歳を重ねるたびに、一本ずつどこかに霧散してしまって、気がついたら夢なんてほんとうに子供時代に寝ぼけて見た夢だったのではないかと思えてくるんだぞ。入学祝いの席で父はぼくにそう言って戒めた。いまそんなことを言われてもよくは理解できなかったが、要するにいまのうちに描いた夢を大切にしろといいたかったのだろう。

 なにも言わないので、もういいよと言ってやろうと思うと同時に鈴木がなにかを言った。

「棺おけ」

「はぁ? なにそれ」

「あの、日本の棺おけはどうもなぁ。白木かなんかで、顔のところに房のついた窓があってさ・・・・・・ああいうのには入りたくないな。できればほら、外国映画に出てくる、あの黒塗りのさ、格好いい棺おけに入れてもらいたいんだな」

 ぼくたちはなぜ突然そんなことを言いだすのかとは訊かなかった。無限の可能性の中にはそういうものだってあるのかもしれない。それに確かに鈴木が四年後卒業して、アナウンサーを目指したり、頭取を目指すって言われた方がびっくりするかもしれない。それは無理なんじゃないのなんて言ってしまうかもだ。そんな大それた夢よりも、棺おけの話のほうがずっとありそうに思えた。やわらかいうどんを口に運んでは二、三度歯ぐきで噛むようにもぐもぐとしてからごくんと呑みこむ鈴木を、ぼくもマナブも黙って見つめた。皺っぽい皮膚、すっかり抜けてしまった髪、曲がった背中。鈴木は同級生には違いないけれども、年齢は確か七十いくつだとか言っていたことをすっかり忘れていた。

                                     了


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第九百六十八話 ぼくのヒーロー [文学譚]

「なぁにやってんだ。そんなことだからいつまで経っても犯人前なんだよう! 馬鹿野郎」

 また課長に怒鳴りつけられた。ほんとうは課長のミスなのに、またぼくのせいにされてしまった。だけどお姫さま育ちの母の血を引くぼくは怒らない。罵倒されても辱められても殴られても、昔っからぼくは怒りを感じない性質なのだ。いや、正確にいうとぼぅっとし過ぎていて、その時点では怒れないのだ。家に帰ってゆっくり考えてみたら、あれ? やっぱりこれっておかしいんじゃないの? 間違ってるよねー、とか気がついて、それから腹が立ってくる。要するにいわゆる昔でいう蛍光灯みたいな性格なのだ。

 だけど十年ほど前、二十歳になったばかりの頃だけど、こんな自分の性格が厭だなぁと思いだして、罵倒されたり、厭なことをされたら、その場ですぐに怒りを表現する人間になりたい、と考えるようになった。けれども性格なんてそう簡単に変われるものではなく、やっぱりぼくは怒れないままだったんだけれども。

 ぼくの性格はかわらないけれども、その代わりにぼくをサポートする人物が現れるようになったのは三年ほど前からだ。たぶん、そいつは少しづつ成長していたんだと思う。ある日気がついたら、ぼくの目の前で人が倒れていた。なにが起きたんだろうと驚いた。倒れているそいつはその直前、ぼくに向かって馬鹿野郎と叫んだ人間なのだった。こんなことがはじめて起きたときにはまったくわからなかったのだが、二回目からは薄々見えてきた。そいつがやって来る時、ぼくの意識は飛んでしまうし、そのために記憶もあいまいになるのだが、回を重ねる度に、そいつがなにをしているのかをしっかりと確認できるようになった。慣れというものなのだろう。

 道を歩いていて、見知らぬ誰かがぼくにぶつかってそのまま知らぬ顔をsて去っていこうとする。いつものぼくは怒りもせずに通り過ぎるのだが、そいつはぼくの後ろからすっと現れてぶつかった奴に向かって叫ぶ。

「おい! 謝れ!」

 ぶつかった奴がそれでも知らん顔をして去ろうとすると、そいつは追いかけていって罵倒しながら殴りつける。相手が謝るか気絶するまで。ぼくは気がついた。そいつはぼくの代わりに怒りを発動してくれるのだ。ぼくに代わって厭な奴を懲らしめてくれる、いわばぼくにとってのヒーローなのだ。

 それからはことあるごとにそいつ、ヒーローが現れて・・・・・・そいつのことをヒロと呼ぶようになった・・・・・・ぼくに悪さをした相手をやっつけてくれる。もはや今ではそれが当たり前になった。

 というわけで、今回も課長に馬鹿野郎と言われた瞬間、ぼく自身は何とも思っていないのに、ヒロが突然現れた。

「おい! アホ課長。てめえが悪いんじゃねえかよ!」

 言うなりヒロの手が出て課長を殴りつけた。会社でヒロが現れたのははじめてだったので、周りはみんな驚いていた。課長自身は気絶してしまったので、驚いたのかどうかはわからないが。

「お、おまえ、急にどうした? おまえってそんな奴だたか?」

 驚いている驚いている。ヒロ、みんなびっくりしてるよ。

 --そりゃぁそうだろう。みんなはあんたがやったと思ってるからなぁ。俺の存在など知らないわけだし。

 そうだよなー。まさかぼくの中にヒロがいるなんて、わからないよね。

 --ああ、すっきりした。前からこいつ、殴りたかったし。

 ありがとう。

 それからぼくは皆から一目置かれるようになった・・・・・・というか、もしかしたら少し恐れられるようになった。あいつは怒ったら人間が豹変するぞ、気をつけろ。そんな噂も広がりはじめた。ぼくじゃないのに、やってるのはヒロなのにね。

                                              了



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第九百六十七話 ぼくに足りなかったもの [文学譚]

 「いまから買いにいこう」

 ぼくの十二回目の誕生日が近づいたあるとき父はぼくを連れて商店街に出かけた。バスと電車を乗り継いで向かう途中、父はなぜそれが必要なのかについてぼくに説明した。

「わしらも持ってないんやが、そんなもんはいらんと思うてきた。けどな、新聞見てみ。人のもん取ったり、近所の人殺したり。それどころか親は子を虐待するわ、子は親を殺すわ。とんでもない世の中や」

 父がなにを言っているのか、なにを伝えたいのかたぶん半分くらいしか真意はわからなかったが、ぼくは神妙な顔をして頷き続けた。

「結局な、人間にはよりどころがいるっちゅうことや。昔の親父にはあったもんが、もはや俺らにはそういうもんがなくなってもうた。そやからこれからの時代を生きるお前にはあった方がええと思うんや」

 行く先々の店で父はそれを探しまわった。電気店、八百屋、精肉店、靴屋、ブティック……どの店にもそれは置いていないようだった。父は店主に在庫の有無を訊ねたがどの店主も首をかしげてそんなものは扱ったことがないと言った。最後の店の店主が、そういうものは病院で処方してもらうものではないかと言うので、商店街の出口近くにあった総合病院を訪ねた。

「ここは病院ですよ。そういうものはお寺とかじゃないですか?」

 受付の女性に言われて父はそうか、そうだったと両手を打った。寺はたしか駅前近くにあった。ぼくたちはそこまで戻って、寺の門をくぐった。ごめんください。父が大声で叫ぶと髪の毛の長い若い坊主が現れて言った。

「父の代まではそういうものも少しぐらいはあったみたいですけど、いまはねぇ。この通り、ここではお葬式と法事を執り行うくらいで、それすら形ばかりのものでね……たぶん、この国にはないと思いますよ。そこの教会できいてみたらどうでしょう」

 表に出ると住職が教えてくれたところに教会があった。牧師は日本人でやはり住職と同じ事を言った。だが、どこに行けば手に入るかを知っていて、こっそりと教えてくれた。

 翌日父はぼくを連れて空港に向かった。国際便に乗せられて十数時間。ぼくには詳しくはわからないのだけれども、どこか地中海という海の近くの外国にたどり着いた。空港を出ると色の浅黒い人々が歩いていて、父はぼくの手を引っ張ってぐいぐいと歩いた。先の尖ったタジン鍋みたいな建物に入っていくと頭にぐるぐると布をいっぱい巻いたお爺さんがいて、そういうことならこの先の村にいるアブドルに頼んでみるといいと言った。父はすぐにアブドルに会いに行った。

「わしはもう、こんな歳だし、足が悪くて動けないし、もはや必要ない。だからお前さんに分けてやってもええ」

 アブドルというお爺さんが口に出したのは知らない言葉だったが父には通じたようだ。父は腹巻の中から財布を出して爺さんが持っていたものと交換した。

「全部やるからわしのかわりにジハードに行ってくれ」

 爺さんの言葉に父は首を横に振りながら爺さんから受け取ったものを半分だけぼくに渡して半分は爺さんに返した。

「半分かえすから、ジハードは自分でなんとかしてくれ」

 父はそう言った。爺さんは残念そうにうなだれた。

「ほら、これがわしらにはないものだ。お前はこのくらいは持っておいた方がいいものだ。爺さんのを全部もらったら大変なことになるがな、このくらいならちょうどいい」

「これ、なんなの?」

 ぼくが訊ねると父は言葉を探してから言った。

「これは、信仰心というものだよ。過去も未来も人間には必要なものだ。きっとお前の約に立つ」

 ぼくはそれを受け取って胸の中に収めたけれども、それがどういうものなのか、ほんとうはまだよくわからなかった。

                                      了


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第九百六十六話 なにも変わらない部屋 [文学譚]

 決して広くはない。最初は十六畳の居間を広過ぎるかと思ったが、テーブルとソファと書棚を置くとちょうどいい感じの広さだと感じるようになった。四脚の椅子がセットになった木のテーブルは居間の西半分の真ん中を占有している。カウンターキッチンがあるサイドだ。残りの東半分はくつろぎスペースとして大小ふたつのソファを据え、東の壁一面が隠れるほどの書棚に向いている。書棚はAVボードを兼ねていて、その中央には大型テレビがはめ込まれている。テレビの周囲を本やDVDが取り囲むように並べられている。これが案外圧迫感があって、部屋の広さを食っている。

 私はこのスペースが好きで、いつも大小どちらかのソファに背中から身を沈めてテレビを眺めていた。テレビに映されているにはくだらないバラエティ番組や安上がりなドラマなどではなく、たいていは映画かお芝居のDVDだった。ソファの上で横になっていると愛猫のトミーがすり寄ってきてお腹の上に飛び乗ってくる。すると私は動きが取れなくなってトミーが飛び降りるまで延々と映画を見続けることになった。

 日々ソファに体を沈めて映画を見続けるという幸福な時間はひと月も続かなかった。冷蔵庫にも食料庫にもお押入れにも、蓄えていた食べ物がなくなってしまったのだ。足の悪い私は部屋から出られない。毎週きてくれていたヘルパーは理由はわからないが来なくなってしまった。多分金銭の問題だろう。電話などとくの昔につながらなくなってしまった。窓から大声を出して助けを呼ぶような気力もとうに失せていた。居間のほかにも部屋はたくさんあるのだが、誰も住んでいない。死んだ爺さんからこの屋敷を受け継いだのは私一人だけだからだ。身よりもなく誰も訪ねても来ない。ソファから立ち上がることもできなくなった頃にはトミーも来なくなってしまった。どこでどうしているのだろうか。私の背中はいつもじくじくと汁のようなものが滲むようになって、嫌な臭いがするようになった。

 あれからどのくらいの時間が過ぎたのか。数日なのか、数ヶ月なのか、あるいは数年なのか。この部屋の様子は少しも変わらない。トミーがいないことと、テレビになにも映っていないこと以外は。そして私は相変わらずソファの上に横たわったまま、真っ暗なテレビの画面を眺め続けている。

                                                          了


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第九百六十五話 空中公園〜情景描写習作 [空想譚]

 家から歩いて五分ほどのところに歴史上の人物の名を冠した公園がある。古代には都が置かれ、国を動かす人物がこのあたりに住んでいたという。草野球のグランドが二面取れるほどの広さだが、その半分は樹木や花壇が配されていてちょっとした森のようになっている。平日の午後は子供たちが野球やサッカーをして遊んでいるのだが、土曜日の朝になると決まって老人たちのゲートボールコートになる。公園の外縁にはブロック塀に沿うようにアスファルトの小道が設えられていて、ジョッガーのために距離を示す数字が路面に描かれている。夕方になると本格的なジョッギングスタイルで走る者やスエットスーツで早足に歩く人が行き来する。私はというと愛犬を連れて散歩する人間の一人で、朝はほんの短い時間だが、夕方は少し長く公園に滞在する。もともと猟犬である我が犬は草むらの中に鼻を突っ込んでは子供たちが失ったボールを見つけ出す名人なのだが、あるとき公園の東南角にあるこんもりした茂みに興味を持ったようだ。そのあたりには遊具があってこれまであまり近づいたことがなかった。愛犬はどんどん茂みに入り込んでいくのでぐいっとリードを引っ張ると、草むらが割れて愛犬の背後に見たことのない祠のようなものが見えた。

 それはなにか金属でできているようで鈍く怪しい光を放っている。愛犬はさらにぐいぐい祠に近づいてその真ん中あたりにある穴に鼻先を突っ込んだ。そこになにかあったのだろうか、ぎりぎりぎりと重たい音がしてついにはがすんと何物かが何処かに嵌まり込んだような音がすると同時に足元が揺らいだ。

 なんだこれは、地震か? いよいよ地面が揺れはじめ、愛犬も驚いて茂みから逃げ出てきた。周りを見るとほかの人々も揺れを感じて立ち尽くしている。公園は非常時の避難所に指定されているので、ほかに避難するところはないのだ。ほどなく揺れが収まったのでほっとしたが、今度は妙な浮遊感がした。公園の様子は変わりないが、外側にそびえているマンションなどのビルが縮んでいる。高層マンションのはずが、もはや十階建てくらいになっていて、さらに背が低くなっている。

 いや違う。建物が縮んでいるのではない。公園が浮かび上がっているのだ。公園全体がなにか大型の飛行物体なのだ。正確にいうと、巨大なマザーシップのようなものが地中に埋れていて、その上に公園がつくられていたのだろう。南東角にあった祠はその起動装置だったに違いない。古代人所縁の名称は、この仕掛けを後世に伝えるための暗号だった。古代人の名を冠した公園は、この公園だけではない。この地を円形に囲むように幾つか存在していることを思い出した。宙人大兄公園群は、古代の宙舟船隊をカモフラージュするために作られていたのだ。

                      了


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第九百六十四話 キレやすい女〜心理描写習作 [文学譚]

 ガチャン!

 まだソースがぐつぐつしているハンバーグが乗せられた大皿が床の上で真っ二つに割れた。両手で持った皿を手放す瞬間には、この手を離せばさぞかしスカッとすることだろうと思ったのだが、ゆかの上に散らばった陶器と肉と野菜の破片を目にしたら級に後悔の気持ちがわき起こった。

 今夜は帰りが早いと言っていたので、今日は夫の好物であるチーズを乗せた牛肉だけのハンバーグにしようと張り切って準備をはじめた。豚肉との合挽き肉ではなく、少し値段の張る牛肉百パーセントのものにしたのは、むろん牛肉好きの夫の喜ぶ顔を想像してのことだ。

 ハンバーグを作り方は単純だ。単純だけど手間がかかる。玉ねぎと人参のみじん切りは粒を揃えた方が口当たりがなめらかになるのだが、丁寧にしないとどうしても大小できてしまう。手早くしないと涙もこぼれてくる。ひき肉をこねるのは泥遊びみたいです楽しくもあるけれども、爪の間に肉片が潜り込むし手が脂っぽくなるのでほんとうは好きじゃない。ボールの中でいい具合にこねたひき肉に卵を加えて、さらに野菜とパン粉を投入してもう一度まんべんなくこねる。ここまでできたらひと安心かといえば、まだいちばん大事な作業が残っている。美味しそうな大きさと形に成型しなければならない。水分の加減によってはべっちゃりしてうまくいかないこともある。いい形にできても、空気抜きをしているうちに崩れてしまったこともある。真ん中に少しくぼみをいれるのは、火通りを均一にするためだ。

 ポテトサラダと人参ソテーもつくり、後はハンバーグを焼くだけにして夫の帰りを待つ。白米もいい感じに炊き上がっている。だが、早いと言っていた夫はまだ姿を見せない。時計の長針が三回回って九時を指す頃、夫はようやく帰ってきた。

「ああ、ごめん。ちょっとビールいっぱいだけつきあわされてね」

「ええーっ。じゃあ、食べてきたの?」

「あ、いや。なにも食べてない、ビールだけ。ああー腹減った!」

 ほんとうかしら。赤い顔して、いっぱいだけじゃぁないでしょうに。おつまみとかあったでしょうに。無理して食べなくてもいいのよと言うと、いや食べる。でも先に風呂に。と言って服を脱ぎはじめた。

 夫が入浴している間にサラダを盛りつけ、ハンバーグに火を入れた。フライパンに蓋をして中火でゆっくり焼き上げる。もう頃合いだなと思った頃、風呂場から夫が呼んだ。おーい、パンツ取ってくれ。もう、そんなもの自分で用意してから入ればいいのに。白いブリーフを持っていくと、それじゃなくって柄のトランクスの、とダメ出し。ほんとうに面倒臭いやつ。風呂場と寝室を二往復している間に、フライパンの温度が上がっていた。嫌な予感。焦げた匂い。

 パジャマを着てようやく食卓についた夫は皿の上に乗ったハンバーグを見て言った。

「あれ、焦げハンだな」

「ごめん、ちょっと目を離して。でも味はいいと思うよ」

「でもさ、焦げは老化を速めるらしいぜ」

 なによ。結局お腹なんて減ってないんじゃない。空腹なら四の五の言わずに食べる人なのに。それに老化って、それは嫌味? 焦げたのはあなたのせいなのに。いろいろな思考が頭を巡ったのはコンマ一秒くらいだと思う。考えるより先にカチンと来て次の瞬間には夫の皿を手に持っていた。そしてそのまま床に叩きつけた。

 夫があっけに取られた顔をしたのは一瞬で、すぐに感情を押し殺して黙って立ち上がった。

「なに考えてるんだ。もう寝る」

言い捨てて寝室に消えた。呆然と床を見つめながら、後始末が大変だなと考えていた。

                                          了


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第九百六十三話 理想の彼女が崩れるとき〜顔の描写練習 [文学譚]

 丸顔でもなく面長でもなく、絵にかいたようなバランスのとれた輪郭でいわゆる小顔である上に、胸元まで伸びた黒髪が両サイドを覆い隠しているからいっそう小さくみえる。肌は赤ん坊のように自然な張りがあって粉もクリームも塗った形跡がないのにピンク色に輝いている。もともと色白であるところへ、この場にいることで少し興奮君に上気しているのだろう。

 彼女の最大の個性は知性と悪戯心を放出して余りある大きい目だ。漆黒の瞳に見つめられると我を忘れて妖しい気持ちになって見つめ返してしまう。さらにシワひとつない目元は思いきり若さを誇っている。きれいなアーチを描く両眉、目頭から下へ降下する鼻筋から連なる小さな鼻、どちらも強過ぎる存在感を拒否している。少しだけ口角の上がった唇はやや厚めでぷるんと弾力がありそうで、淡いチェリーレッドの口紅がよく似合っている。

 たぶん元々の彼女はこんな感じだったに違いない。しかしいま私の目の前にいるのは、理想的な数値の倍はあろうかと思われる脂肪に包まれ、美しいはずのパーツのすべては膨れあがった肉の上にかろうじて貼りついているというありさまなのだ。

 いったいなにが彼女をこのようにしてしまったのかはわからないが、少なくとも彼女の顔はどこにもメスを入れる余地はなさそうに思われる。元通りの美しさを取り戻したいと私の元へやってきたに違いないのだが、これは整形外科医ではなく、ダイエットセラピストの仕事だと思うのだ。

                         了


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第九百六十二話 同級生 [文学譚]

 出先での商用を済ませて帰社しようと北村通りを歩いているときだった。歩道に立ち並ぶポプラ並木の影からひとりの男がすっと現れ片手を上げて挨拶した。見たことのない男だった。ぼくに向けられたものではないと思ったから、男の横を通り過ぎようとすると男が声をかけてきた。

「おいおい、つれないなぁ。忘れたのか、俺だよ」

 え? ぼく? ぼくが声をかけられたのかどうかまだ疑わしく、立ち止まって周りを見渡す。だが、男の近くにいるのはぼくだけだ。

「え? ぼくですか?」

「そうだよ、青山くん。ずいぶん久しぶりじゃぁないか」

 名前を呼ばれて、はて知り合いだったのか? でも記憶にはない。どこで会ったのだろう。得意先か? それとも協力会社か? まったく覚えがなかったが、向こうが知っているのなら無視するわけにもいかず、曖昧な笑顔で男の顔を見つめた。ぼくと同じくらいの背丈だがぼくより痩せている。着用している派手目のジャケットは、どうみても普通の会社員ではない。うっすらと無精ひげを生やし、サングラスと帽子が顔の三分の一くらいを隠している。男はぼくの表情を読み取ったのだろう、サングラスを外しながらもう一度言った。

「ほら、同じ中学、高校だっただろ、俺たち。わからないか? ノリだよ」

 ノリ? 覚えていないけれど、そういえばこんな男はいたような気がする。見覚えのある顔であることには違いない。名前を名乗られてもちゃんと思いだせないなんて、老化しはじめているのかな? 同級生だと言っているのに知らないなんて言えない。ここは知っている思いだしたフリをして早々に切り上げよう。

「あ、ああ、ノリかぁ。懐かしいなぁ。元気なの? あ、でもぼくちょっと、急いで会社に帰らなきゃあならないんで、また今度」

 男が返事するのも待たず、では、と言って足早に立ち去った。申し訳ないが仕方がない。ほんとうに急いでいるのだし。しかし連絡先も伝えずにまた今度だなんて、ぼくも適当だなぁ。

  一週間が過ぎた。なんとかサービス残業を終えて家にたどりついたのは九時を少し回った時刻。マンションのドアの前にあの男がいた。やあ、と片手を上げた男は前よりは少し大人しめのジャケット姿だった。

「な、なんです? なんでここを?」

「同級生だもの。連絡先くらいわかるよ。それより、入れてもらっていいかな?」

 ちょっと気味が悪かったが、無下に断るわけにもいかず、鍵を開けて部屋に入れた。

「ほら、ビール」

 ワンルームのリビングに入ると、男は提げていたビニール袋から缶ビールを二缶取り出して、一缶をぼくに投げて寄こした。反射的に手を出して受け取り、サンキュと礼を言うと、男はおう! と答えて缶のプルトップを開けた。袋の中にはまだ何缶かビールが入っていて、どさっとテーブルの上に置きながら「乾杯!」と言うので、ぼくもつられて「乾杯」と返した。

 ビール好きの上に喉も乾いていたぼくはすっかりいい気分になって、ぐいっと飲み干す。そうだ、腹は減ってないか? おう、なんかあるのか? そうだな……答えながら冷蔵庫を漁るとなにかしらアテっぽいものが出てきた。チーズ、ちくわ、小魚甘露煮、そんなところだ。男は中学や高校の頃のことをよく覚えていた。男子に人気のあった女子、委員長がつきあっていた相手、クラスの中のドジなやつ、ウザい英語の教師、学校出たての化学の教師……昔話は盛り上がる。共通の思い出だからお互いに知っていて当然なのに、二十年も過ぎると案外忘れてしまっているものだ。だが男はぼくが忘れていたことも、知らなかったことも、すべてを覚えていた。缶ビールを飲みきってしまうと、ぼくは押入れから焼酎の一升瓶を取り出した。同級生同士で盛り上がってしまい、週末ということもあってすっかり酔っぱらってそのまま床の上で眠ってしまった。

 翌朝遅めに目を覚まし、朝食を作ってやると、そうだなお前はこういうの上手そうだったよな、うまいうまいと言いながら食べた。一息ついたら帰るのだろうと思っていたら、ちょっともうひと眠りさせてくれと言ってぼくのベッドにもぐりこんだ。ダメだとも言えないまま夜が来て、結局その日から男は僕の家に住みついてしまった。

 男がなんの仕事をしているのかわからないが、朝一緒に家を出て、同じくらいに帰って来る。毎晩軽い酒盛りになった。昔の話が尽きると、仕事の愚痴を離したり、テレビで野球を見たり、将来の話をしたり。

「お前、辞めたいんだろ、いまの会社」

「そうなんだ。忙しすぎる割には給料は安いし、残業代はないし」

「なんだ、そういうの、ブラック企業って言うんじゃないのか」

「しかしもう二十年も勤めているんだぞ」

「お前はまだ管理職じゃないのか」

「もしそうだったらこんな愚痴言わないだろう」

「迷ってんだな、これからのこと。誰かに背中を押してもらいたいんだろう?」

「ま、まぁな。ぼくは優柔不断だからな、昔から」

「辞めちまえ辞めちまえ、そんな会社」

「でも……」

 何日かそういう会社談義が続き、ぼくは遂に決心した。その日のうちに退職願いを書いて、翌日上司に叩きつけた。

「そうか、ついにやったか。よかったな」

 ほんとうのところ、相談できる友人もなく、悩み続けていたのだ。胸のつかえがとれたような気分だ。

「次の仕事は自分で探せよ」

 缶ビールで乾杯したその日、男は上から目線で言った。

「そうだな、しばらく休養してからな」

 ぼくはとっくに気がついていた。男は、これまでのぼくが諦め続けてきたことを諦めなかったぼくの姿だ。なぜこんなことができたのかわからないが、いまのぼくとは違って、金も名誉も未来も手に入れたもうひとりのぼくだ。ノリというのは則輔のノリで、ぼくの高校のときの呼ばれ方だ。男は不甲斐ないぼくが呼び寄せたぼく自身だった。缶ビールを飲み干すと、男はどんどん影を薄くして遂には消えていった。

                                                了


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第九百六十一話 失ってしまった悲しみを [文学譚]

 平日の朝はいつもせわしない。目覚めは悪くないのだが、ベッドから起き出した後がいけない。自分が愚図だとは思っていないのだが、どういうわけかその時間帯には時計の回転が速いのだ。洗面所で用事を済ませて朝のワイド番組をつけてみると、もう三十分も過ぎている。ニュースを見ながらコーヒーを沸かし、トースターのタイマーを入れ、さぁ朝飯だというタイミングではすでに予定時間を超過してしまっていて、パンをかじりながら慌てて着替えをする羽目になる。たぶん、目覚めた直後というのは、脳神経の働きが鈍っているのか、さもなければ室内のどこかにいるちっちゃいおじさんが意地悪して時計を早回ししているのに違いない。

 ハンカチ、携帯、時計、財布、鞄の中身を確認して玄関に走る。靴なんて選んでいられない。昨晩脱いだものにそのまま足を突っ込む。鍵、鍵。下駄箱の上に投げ出されている鍵を掴んで外に出る。

 玄関ドアを閉めて鍵をかけたとたん、なにか胸の中の空洞を感じる。なんだ? なにか忘れている? エレベーターを待ちながら、もう一度鞄の中身、ポケットの中をチェックする。ハンカチ、携帯、時計、財布……いや、なにも忘れていないはずだが。エレベーターに乗って一階まで降り、エントランスホールを出てからもまださっきの違和感がつきまとっている。首を振ってその違和感を振り払おうとするが、そんなことで消えるものではなかった。記憶違いとか、勘違いとか、そういうことではすまされないなにか。胸の奥深くにぽっかりと空いてしまっている穴っぽこ。

 それがなにかをほんとうは知っているけれど、いまは思い出したくない。朝からそんなものを思い返してなんになる。これから電車にのって仕事場に向かい、しっかりと役割を果たさなければいけないってときに。理屈ではそのとおりだ。いまそんなことに対峙している場合ではない。だが、人間というものはなかなか理屈どおりにはいかないらしい。考えまいと思えば思うほど胸の中の穴はその体積を増やし、いや、そういう物理的なことではなくって、全身が空虚な穴になってしまったように感じはじめる。足取りが止まる。前に進めない。先を急ぐ人々が迷惑そうに歩調を荒だてて追い越していく。

 家からまださほど離れていない歩道の上に立ちすくんだまま、鞄から手を離して両手で顔を覆う。ああ、なんてことだ。今さらながらにため息とともに声が出る。忘れものではない。忘れたわけではない。俺は、俺は……失ってしまった。毎朝玄関を出る度に思い出してしまうこの悲しみからいつになれば解放される? これは一生ついて回るのか?

 半年前まではなにも意識せずに玄関を飛び出していたのに。ごく当たり前のように受け止め、言葉を返していたのに。そんな当たり前のことを失ってしまった。どんなに後悔しても、どんなに望んでも、それはもうこの世に取り戻すことのできないさりげない言葉。「行ってらっしゃい」という元気だった妻の声。

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第九百六十話 漏れている [脳内譚]

 かつて喘息の持病を持っていた。小児喘息ではなく罹病したのは大人になってからだ。毎日咳が出るなあと思っていたらそのうち咳が止まらなくなり、病院を訪ねてみたら緊急入院と言われた。血中酸素が不足しているということで二週間の入院で正常値に戻して退院した。

 大人になってからの喘息は完治しないと言われたが、毎日続けていた薬剤吸入の回数は自然に減っていき、数年後にはいつの間にか喘息の発作は年に一、二度ほど季節の変わり目に軽く咳き込むくらいでほとんど出なくなっていた。

 ところがそんなことも忘れてしまった頃、妙に喉に痰が引っかかるようになった。常にエヘンとかクァッとかいう様はまるで老人になってしまったようで、嫌だった。咽喉科で診てもらっても、アレルギーだと言われその都度投薬はされるもののいっこうに改善しない。このくらいのアレルギー症状は病気扱いされないようだった。同じような症状で困っている人が他にもいるのではないかと考えてネットで検索してみると、ブロンコレアという病名が出てきた。気管支漏といって一日に百ミリリットル以上の透明な痰が出る場合をいい、それは難治病だという。ははぁ、これに違いないと思って医師に訊ねると、「そうですよ、こういうのは全部それです」と、困惑もなく告げられた。

 他人のケースをみても、ほとんどの場合原因は特にわからないらしく、私の場合もアレルギーという得体の知れない原因にされている。気管支漏というくらいだから、粘膜が弱っているかなにかで粘液が漏れているのだろうが、原因不明というのは気持ちの悪いものである。

 皮膚にしろ粘膜にしろ、ミクロで見ると小さな孔が空いているというのは想像できる範疇であるが、本来はそこから体液が漏れたりはしないものだ。どういう仕組みかはわからないけれども、おそらく体液の粒子の大きさよりも粘膜孔の方が小さいからなのだと思う。だとすると、何らかの故障で粘膜の孔が広がってしまったのかもしれない。そこから体液である粘液が漏れ出てしまって、喉のところにたまっていくのだ。医師が言ったわけではないけれども、きっとそういうことに違いないと確信した。

 しかしまてよ、そういうことは喉のところでしか起きないのだろうか? 内耳のあたりで声がした。「それはいいところに気がついたね」だ、誰? 「人間の身体は精神に影響される。精神が弱れば肉体も弱る」それはなんとなくわかるが……「要は君は喉の不調に気づいてしまったんだ。だからますます漏れはじめた」つまりなに?「今度は粘膜全体、皮膚全体に気づいてしまったようだ」ど、どういうこと? だからなに?「残念だけど……これからはほかの部位からも漏れることになったよ。自分でそうしてしまったわけなんだけれどね」ちょ、ちょっと……。

 なぞの言葉を最後に声は止まった。あれは、私自身の肉体の声? そんなことって……そこまで考えたとき、頭の中がぐにゃりとするのを感じた。なに? なんだ? 意識に雲がかかる感じの中で、これは脳が漏れはじめているのだと直感した。

                                                    了


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