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第九百六十一話 失ってしまった悲しみを [文学譚]

 平日の朝はいつもせわしない。目覚めは悪くないのだが、ベッドから起き出した後がいけない。自分が愚図だとは思っていないのだが、どういうわけかその時間帯には時計の回転が速いのだ。洗面所で用事を済ませて朝のワイド番組をつけてみると、もう三十分も過ぎている。ニュースを見ながらコーヒーを沸かし、トースターのタイマーを入れ、さぁ朝飯だというタイミングではすでに予定時間を超過してしまっていて、パンをかじりながら慌てて着替えをする羽目になる。たぶん、目覚めた直後というのは、脳神経の働きが鈍っているのか、さもなければ室内のどこかにいるちっちゃいおじさんが意地悪して時計を早回ししているのに違いない。

 ハンカチ、携帯、時計、財布、鞄の中身を確認して玄関に走る。靴なんて選んでいられない。昨晩脱いだものにそのまま足を突っ込む。鍵、鍵。下駄箱の上に投げ出されている鍵を掴んで外に出る。

 玄関ドアを閉めて鍵をかけたとたん、なにか胸の中の空洞を感じる。なんだ? なにか忘れている? エレベーターを待ちながら、もう一度鞄の中身、ポケットの中をチェックする。ハンカチ、携帯、時計、財布……いや、なにも忘れていないはずだが。エレベーターに乗って一階まで降り、エントランスホールを出てからもまださっきの違和感がつきまとっている。首を振ってその違和感を振り払おうとするが、そんなことで消えるものではなかった。記憶違いとか、勘違いとか、そういうことではすまされないなにか。胸の奥深くにぽっかりと空いてしまっている穴っぽこ。

 それがなにかをほんとうは知っているけれど、いまは思い出したくない。朝からそんなものを思い返してなんになる。これから電車にのって仕事場に向かい、しっかりと役割を果たさなければいけないってときに。理屈ではそのとおりだ。いまそんなことに対峙している場合ではない。だが、人間というものはなかなか理屈どおりにはいかないらしい。考えまいと思えば思うほど胸の中の穴はその体積を増やし、いや、そういう物理的なことではなくって、全身が空虚な穴になってしまったように感じはじめる。足取りが止まる。前に進めない。先を急ぐ人々が迷惑そうに歩調を荒だてて追い越していく。

 家からまださほど離れていない歩道の上に立ちすくんだまま、鞄から手を離して両手で顔を覆う。ああ、なんてことだ。今さらながらにため息とともに声が出る。忘れものではない。忘れたわけではない。俺は、俺は……失ってしまった。毎朝玄関を出る度に思い出してしまうこの悲しみからいつになれば解放される? これは一生ついて回るのか?

 半年前まではなにも意識せずに玄関を飛び出していたのに。ごく当たり前のように受け止め、言葉を返していたのに。そんな当たり前のことを失ってしまった。どんなに後悔しても、どんなに望んでも、それはもうこの世に取り戻すことのできないさりげない言葉。「行ってらっしゃい」という元気だった妻の声。

                                              了

 


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