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第五百八十七話 鬱るんデス [文学譚]

 もともと、気分にムラがある性格だった。それでも、子育てをしている間は、

何かと忙しくつまらないことを想う暇も、落ち込む暇もなかった。子供たちが

大きくなって独立し、家から出て行ってしばらくは、なんて自由なんだろうと

喜びさえしていたのだが、ひと月もすると寂しさが募ってきて、どういう理由

もなく、塞いだ気分になる日が続くようになった。もう、自分の役割は終わっ

てしまったような、生きていく目的を失ってしまったような、虚脱感。友達に

言うと「気分変調症」という言葉が出てきた。鬱まではいかないが、軽い鬱

状態。毎日気分の低空飛行が続いて、やる気も失せ、どんよりした気分が

続く。何事があったわけでもないのに、不意に涙がこぼれていたたまれな

くなる。診療内科の扉をたたいて、診察の結果、経過を見ながら軽い抗鬱

剤を飲むことになった。

 それから二年ほど、投薬を続け、悪くこそならないで済んだが、さほど回

復もしないので、薬を飲み続けるのがいやで、医者には治りましたと嘘を

ついて、診療内科を卒業した。だが、本当のところは低空飛行は続いて

いるのだ。家の中は夫と二人、どんよりした空気が流れている。夫はもと

より無口で、鈍感な人なので、私の気分変調など気にもしていなかったの

だが、ある日を境に変わった。

 夕食のメニューだったか、味付けだったか、とにかくごくつまらないことが

原因だ。夫が文句を言ったので、私が咄嗟に言い返したら、怒り出した。売

り言葉に買い言葉で、言い合いになったが、私は喧嘩等したくなかったので

すぐに黙り込んで、夫の言葉をかわした。それから数日口をきかない日々が

続いたが、もともと会話の少ない夫婦だったので、私はなんとも思っていなか

ったのだが、夫はそうでもないようだった。

 無口な夫は、もともと「飯、風呂、寝る」しか言わないような人だから、今さら

会話などなくても何も変わらないように思うのだが、私の口数が減った、なくな

ったことにはようやく気がついたようだ。自分は黙っていても、家の中には私の

声が散乱しているのが普通であったと、今さらながらにわかったようだ。私だっ

て気分変調になってからはぐっと口数は減っていたのだが、それでも何かと言

葉を放っていたのだろう。それさえもなくなったことに気づいた夫は、それまで

よりもさらに陰鬱な表情を見せるようになった。苦しそうな顔をしているときす

らある。しかし私はそれを無視した。お互いに意地を張り、折れようとはしない

まま、数週間が過ぎ、気がつけば半年過ぎていた。

 慣れとは恐ろしい。二人だけという閉ざされた社会の中で、いささかも会話

をしないのが普通になり、夫婦が顔を合わせても透明人間のように誰もいな

以下のように振舞う。この状況を何とかしなければなど、どちらからも提案し

なかった。それまでだって「飯、風呂、寝る」しかなかった夫から、その三つの

言葉がなくなったとしても、私は何も困らなかった。だが、夫はそれなりに感じ

ていたようだ。いまや私の鬱は夫に乗り移り、夫は鬱状態に苦しんでいたの

だと、後になってわかった。

 ある日、夫はいつもより遅い時間に帰宅した。私はいつも通り黙って迎え、

食卓には既に食事の用意が出来ていた。黙って食卓についた夫のグラスに

ビールを注いで自分にも少し注ぐ。つけっぱなしのテレビを見ながら、黙々と

箸をすすめる二人。食事が終わって片付けものをし、その間に夫は寝室でく

つろいでいるのだと思った。私は用事を済ませてからリビングのソファに腰掛

けてテレビを見ていたのだが、夫が寝室から出てきた。

 黙って私の前に立つ夫。何? どうしたの? 声には出さずに夫を見る。夫

は後ろ手に何かを持っている。何? と思うまもなく、夫は手に持ったナイフを

私に突きつけてきた。あっ! 痛い! さ、刺された! 夫に刺された! ・・・・・・

あれ? 痛くない。ナイフはゴムでできたパーティグッズだった。夫がどこかで

買って帰ったようだ。夫はサイコのように私の胸に柔らかいゴムのナイフを突き

つける。ブサッ! ブサッ! 何度も何度もゴムのナイフを突き立てた夫は、

度は自分の胸にナイフを突き立てた。何度も何度も。そして自分にゴムのナ

フを突き立てながら、床の上に転がって、動かなくなった。

 本当に死んでしまったのか、微かな息は寝息なのか。死んだ振りをしている

だけなのか。私は動かない夫の姿を見つめながら、頭の中で同じことを繰り返

していた。私たち、終わったのだろうか。それとも始まるのだろうか。

                              了

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