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第八百八十八話 お線香 [文学譚]

 黒い漆塗りの仏壇に向かって正座する。ここに座るのは何年ぶりだろう。墓参りは何年か毎にするが、仏壇の前ではもう何年も手を合わせていない。つまりそのくらい実家に寄りついていないということだ。仏壇のちょうど真上あたりに十数年前に亡くなった父の遺影が飾られていて、生前の照れ笑いのまま私を見下ろしている。父さん、ごめん。長いことお参りしてなくって。小声で謝ってから、前棚にある線香を一本取り上げて先ほど灯した蝋燭の炎に近づける。あの懐かしい祖母の臭いが広がって燃える小さな炎を右手で扇いで消すと、一本の白い筋が揺らめきながら立ち上がる。

 そういえば父が逝った数日後、新しく据えられた仏壇の前に座った母は、父にあげた線香の煙が風もないのに不思議に揺らめいて誘いかけてきたという不思議な体験を語った。そんな馬鹿なことはないだろうと思ったが、それは父を名残惜しく思っている母の気持ちの表れなのだろうと思ってその話を黙って受け入れた。それ以降、母は二度とそのようなことを言わなかったが、亡き父への決別を受け入れたということなのだろう。

 仏壇に向かって手を合わせて心を無にする。だが、心を無になんてなかなかできないものだ。このところうまくいっていない日常の様々なことが湧きあがってきて、誰に語るともなく心の中で繰り返される。世の中の流れが変わって会社の経営に影が差すと同時に、閑職に回されかけていること、その新たな部署でなかなか馴染めないでいること、その態度が顔に出るのか取引先とよく揉めるようになっていること。会社での出来事など、誰かに相談するようなことでもないし、話しても仕方のないことだと思っている。それでも近親者には愚痴ってしまうものなのだが、家に帰れば妻との折り合いが悪くなっており仕事の話などできる環境ではないのだ。なんだかなぁ。手を併せたまま思わず口に出す。あら? またなんか悩んでるのかい。背後から母の声がする。うん、いや。別に悩んでいるわけではないが、いろいろとうまくいかなくてね。小声で返すと、母が言う。そんなものはね、お前の思い過ごしなんだよ。お前は子供の頃から賢かったし、よくできた子だった。そのお前が人生に負けるわけがない。もっとしっかりしな。私が傍にいるから。

 子供の頃を思い返すと、父とのことよりも母と一緒にいた思い出の方が圧倒的に多い。と言うよりも、父と過ごした時間の記憶など皆無に近い。だからというわけではないだろうが、私は母にならなんでも話せた。大人になってからも、恋や仕事や家庭の話をよく聞いてもらったものだ。母はよくできた人で、一人息子を溺愛するでもなく、人生の教師のようにうまく接し続けてくれた。そうういうこともあって、私はマザーコンプレックスの一歩手前くらいで母子の関係を謳歌してきたのだ。

 ねぇ母さん、僕はもう会社が厭になってきてるんだよ。辞めてなにか新しいことでも始めようかなぁ。あのねえ、新しいことを始めるのは悪いことではないけれど、今の仕事が嫌になったからというのはいただけないねぇ。そんな考えでは新しい仕事を始めてもまたすぐに厭になってしまうのではないかい? 図星だ。本当はもう何もしたくない。収入を失うわけにはいかないから新しい仕事をと考えてみただけで、本当はもう仕事なんか。ほんとうは生きていくのをやめたいとすら思っているのだ。

 だめ。それはだめだよ、お前。私の心の中を見透かしたように母が言う。まだそれは早すぎるのではないかい? 死んでしまいたいだなんて。お前には嫁さんも息子もいるんだろ? いくら折り合いが悪くなってるたって、そりゃぁ悲しむに決まってる。だめだよ。まだこっちに来させるわけにはいかないね。

 短くなった線香が灰を落とし、煙が揺らぐ。合わせた手を外しながら顔を上げると、父の遺影の横に並んだ母がすました顔で見下ろしていた。

                                              了


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