第八百九十五話 鳩川君 [文学譚]
小学校の放課後、教室の隅で日丸和人(ひまるかずと)は同級生の中華民生(なかはなたみお)に掴みかかられそうになっていた。そこにやはり同級生の鳩川太郎がふらっと現れた。和人はなんだか悪い予感がした。だって鳩川と中華はともだちで、とりわけ中華はお金持ちでモノをよくくれるので、鳩川はいつも尻尾を振りながらついて回っているような仲なんだもの。鳩川が言った。
「どうしたの? なにかもめているの?」
「そうなんだよ、こいつ……日丸がさぁ、ぼくの千画カードを盗んだんだ」
「なんだって? ぼく、そんなことしないよ。これはもとからぼくのものだ」
「まぁまぁ二人とも、どういうことか教えてよ」
日丸は気が乗らなかったが、中華だけにしゃべらすと一方的なことになるので、交互に説明した。つまり、こないだの日曜日、ふたりで千画ゲームをして遊んでいるうちに二人の間でカードの応酬があって、最後に勝った日丸が残ったカードをせしめたのだけれども、その最後に残っていたカードは、どちらのものでもなく、むしろ自分のものであるはずだと、中華が急に言い出したのだ。そしてその自分のカードを持って帰った日丸はそのカードを盗んだのだと言いはじめたのだ。
「ふぅん。でも、最後に勝ったのは日丸君なんでしょ?」
「でもね、あれは引き分けだったような気がするんだ。最後に残ったのはぼくがとってもほしかったカードだし、たぶん日丸君も大事にしていたカードなんだ。だから無理やり持って帰ったんだよ」
「そうなのか、日丸君」
「うん、もともとぼくが持ってて大事にしていたんだ。希少モンスターかーどだからね。でも、最後に勝ったのはほんとうなんだ」
「ふぅん。日丸君が勝ったって言ってるよ」
「嘘だぁ。最後は引き分けだった。日丸君は盗んだんだ」
「日丸君、中華君はああ言ってる。二人しかいなかったんだし、結局持って帰ったのは君なんだからさ、彼が言うように盗んだって思われても仕方がないんじゃないかな、ぼくはそう思うよ」
「な、なんだって? そんな馬鹿な。鳩川君は中華が言ったことを繰り返してるだけじゃぁないか。そんなのおかしいよ。君、中華からなにかもらってるからそんなこと言うんだろう!」
「なにを言うんだ。君は千画ゲームのやり方をもう一度ちゃんと勉強した方がいいんじゃないの? さ、中華君、行こう」
二人が返った教室で、日丸はなんとも言えない気持ちになった。なんとかカードはとりあえずは取られなくて済んだが、今度またいつ言いだされるかわからない。本当に中華は我がままで困った奴だ。でもそれ以上に鳩川は……腹が立つ。横から入ってきて、ともだちの言い分を繰り返すだけで反論してるつもりなんだから。こんなクラスメートがいる世界なんて、もう厭になっちゃう。日丸はますます暗い気持ちになりながら教室を後にした。
了
第八百九十四話 七夕疑念 [文学譚]
夫は朝から不機嫌そうな顔で起きて来た。といってもこの日に限ったことではないのだが。夫婦仲はとりわけ悪いということもないとは思っているのだが、新婚当初はもう少し夫婦の会話というものがあったような気がする。もっとも夫婦の会話というよりはまだ恋人同士という気分を引きずっていたということなのかもしれないが。
家族であっても心が通じ合うなんてことはほんとうは難しいんではないかなと、最近そう思う。夫がなにを考えているのか、会社でなにか厭なことでもあったのか、わからない。今日は会社どうだったの? などと聞いたところで、うむ、まあな。なんていう答えが返ってくるくらいで、何も言ってくれない。男ってそんな生き物なのだ。
夫は窓の外の曇り空を眺めながら、ああ、とか、うん、とか曖昧な声を出した後でわからないな、もしかしたら飲みになるかもしれないと言いながら出かけて行った。
今日は七夕。乙姫様と彦星様が年に一度出会える日。せめて今日くらいは二人にあやかって夫婦の会話をしたいではないか。そう思うから夫には早く帰ってほしいと思うのだが。私は夫がなにを思って眺めていたのかしらと同じように曇り空に目をやった。天気予報では本日は雨と伝えられていた。 午後から降り出した雨は、夕方になるとぴたりと止んで、日暮れになると一番星が見えるほどに晴れて来た。ああ、これで乙姫様は彦星様に会えるわ、きっと。そう思うと我が家でもいいことがありそうな気がして気分も晴れたが、結局夫は深夜になってようやく帰って来た。夕食はとっくに冷蔵庫にしまってある。もちろん食事は済ませて来たようだ。帰って早々に風呂に入ってしまった夫のスーツをハンガーに掛けながら、ポケットに突っこまれていた煙草を取り出す。一緒に見かけない使い捨てライターが入っていた。
聞いたことのない名前。今日はここで飲んで来たのだろうか。ここで飲んで来たの? そんなことを聞いたところで返事等あるわけがない。ふっと夫が昔浮気をしていたのではないかと疑った相手の名前が頭をよぎった。確かあれは……天野愛美、あまのかわみって言ってたような。風の噂で彼女は会社を辞めて水商売をはじめたとか。まさかその人が天の川なんて名前の店を開いてて、夫は年に一度そこに通っているとか? そんな出来すぎた話は、ないわ。私は食卓の椅子に座ったままオレンジ色のライターを見つめながら夫が風呂場から出てくるのを静かに待った。
了