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第九百七話 名言 [文学譚]

「言いたいことがあるんだろう? 思いは伝えなきゃ思ってないのと同じだぞ」

 言われてはっとする。ぼくは思っていることを自分の中で何度も反芻するような人間だ。人に言っていいものだろうか、それとも自分の中で納めておくべことだろうか。昔ながらの儒教的な考え方をする厳しい母親に育てられたぼくには、「我慢」という言葉が染み付いている。そんなことは人に言うべきことじゃぁありません。人に迷惑をかけてはいけません。少々のことには耐えて、自分を抑えて誰かのためになることをする、そういうのが日本人の美徳なんです。こういうのは間違ってはいないのだろうけれど、昨今の社会にはそぐわない。耐えて耐えて、限界まで耐えて最後の最後にバスンと行動に出るなんていう高倉健さんは格好よかったけれども、いまどきそんな人間はいない。けれども、ぼくの中に棲みついている我慢する魂はそう簡単になくなるものではなく、学校時代にも、社会人になってからも、まずは他人の意見を聞き入れ、それを自分なりに受け止め、よほどのことがなければ自分の意見は口には出さない。ぼくのような人間がいてこそ社会が成り立つのだし、ほとんどの人は同じように考えているのだと思っていた。

 転勤を内示されたときも、誰かが行かなければならないのだとすればそれは仕方がないことだと思って受け入れた。賞与の査定が悪くても、いまは世の中全体の景気が悪いのだからと受け止めた。通勤電車で痴漢をしたと言われた時にはかなり参ったけれども、相手のOLがそう感じてしまったのだから、たまたま後ろにいた自分が悪いと考えた。この事件を会社は許容したけれども、左遷されてしまったときには、許容されただけでもありがたいと思った。この事件が尾を引いて、出向先の会社でセクハラ疑惑が起きたときも、社内の女性にとってぼくの存在自体が疎ましいのだから仕方がないと受け止めた。リストラ対処にされてしまったときには、会社のためには誰かが辞めねばならないのだと思って耐え抜いた。

 こうして怒濤のような人生を生きてきたぼくは、それでも母親から叩きこまれた生き方を守り続けたわけで、それが間違っていると思ったことは一度もなかった。だが、いまになってなぜこんなに貧乏で惨めったらしい暮らしをしているのだろうと思い返してみてはじめて、あのときはたして我慢するべきだったのだろうか、自分に掛けられた疑いを晴らすためにもっと何かを言うべきだった野田はないだろうかなどと思いはじめていたのだ。しかし、今頃そんな過去のことを顧みたところで、なんの足しにもならないのだが。それにあまりにも他人の考えを受け入れ、自分を殺し過ぎたぼくには、自分の考えというものがないように思われた。誰かが思ったことを優先するあまり、自分自身の思いなど必要としなくなっていたからだ。

 そんなときに「伝えなければ思っていないのと同じ」という声を聞いた私は、完全に共感した。伝えなかったから、自分の思いは消えてなくなってしまったのだ。まさに思っていないのと同じだったのだ。

 いまさらこんなことに気がついても、もう遅い。遅いけれども共感してしまった言葉は胸に刺さったままだ。どうすればいいのだ。 すると、別の言葉が聞こえて来た。

「ぶれるな。自分のことを信じられない奴を、他の誰が信じるんだ」

 同じ人間が放った言葉だ。さっきは伝えろと言った。だが今度は自分を信じろと言う。これもなるほどその通りだと思うのだが、思いを胸に秘めて伝えない人生を歩んできたぼくに伝えろと鼓舞しておいて、今度は自分の考えを信じろと言う。どちらも名言ではあるが、相反するオーダーだ。参った。ぼくはますます混乱する。わけがわからない。

 テレビの中の人物は、どうしたわけか馬に乗った武士だ。いやいやこれは演じているだけで中身は俳優だ。これはコマーシャルなのだ。ぼくはコマーシャルのセリフに共感し、撹乱させられ、いまや困惑している。出来ることはひとつだけだ。何も聞かなかったことにしよう。ぼくはリモコンを手にとってテレビを消し、あのビールのコマーシャルを二度と見ないようにしようと決めた。

                                               了


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