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第九百十七話 諦める人 [変身譚]

 私は歌手になりたかった。そのためにレッスンにも通ったし、日々歌うことを忘れなかった。だけど。

 なにごとも諦めが肝心という言い方があるが、一方では決して諦めてはいけないという人もいる。どっちを選ぶかはその人の自由であるけれども、私は後者を信じ続けた。諦めずに続けさえすれば、いつか夢は叶う、そう信じてきた。だけど。

 十年間歌を練習し続けて、確かに声が出るようになったし、上手になったと先生が褒めてくれるとおりに、自分でも昔よりは上手くなったように思う。だけど所詮素人の域を出ない。とてもじゃないがプロの歌手になんてなれるはずもない。ボイスレコーダーに吹き込んだ自分の歌を聞きながら遂に私はそう理解した。

 歌を諦めた私は歌うことがだめなら歌を作る人になろうと考えた。もちろんこれまでも密かに歌をつくったことはある。歌っていると自然に湧いてくるものがあって、それを書きつけたりレコーダーに吹き込んだりしていた。だが、楽器というものを扱えない私にとって鼻歌以外には音楽を奏でる方法がないので、作曲などできないことは最初からわかっていた。それでも詩なら書けるだろうなんて考えたことがひたすら甘かった。思いつくままにノートに詩を書き、同じような言葉を次から次へと書き続け、きっといつかいい歌になるに違いないと信じて書いた詩は百篇ほどになった。しかし改めて自分で書いたものを見直してみればどれもこれもほんとうに似たようなものばかりで、先に同じような言葉とかいたけれども、そうではなく、同じ言葉を並べ方を変えて書きなぐっていたことに気がついた。結局私の頭の中にはそれほど語彙もなく、新しいフレーズを考え出す創造力もなく、もうこれはどうしようもないなと自分の頭を振ったり叩いたりしてみるものの、そんなことでなにか新しい詩が生まれるわけもなかった。そして私は歌をつくることも諦めた。

 それならせめて人を喜ばせることのできる者になりたいと考えた。人を喜ばせることとは……たとえば漫才師。しかしこれは一人ではできない。一人でできるのは漫談というやつだ。外国流にいえばコメディアン。おいあんた、こんなジョーク知ってるかい? どんなジョークかって? さぁ、それがわからないからあんたに聞いてるんじゃないかよ……ダメ。私にはジョークのセンスなどかけらもない。第一、人前でどころか、人と話をするのさえ苦手なんだから。作詞できなかった理由はそのまま会話にも影響する。知ってる言葉が少ないと、人と話をすることさえ難しい。私はすぐに漫談師になることを諦めることにした。

 言葉が苦手? 話すことが苦手? 言葉を話すことは地球上の生物の中で唯一人間だけの特権なのに、それができないなんて。そう考えたとき私の中にまたひとつ疑問が生まれた。私はずっと人間であり続けたいと願ってきた。だけどいま気がついた。それは難しいってことに。だって言葉が、会話が難しいんだもの。じゃぁ私はいったいなんなの? 人間であり続けたいと夢見ている私は。なにごとも諦めてはいけない、そう教えられたからそのようにしてきたというのに。私はたったいま気がついた。私は人間ではないのだということに。そして気がつくと同時に人間であることを諦めてしまった。なにごとも諦めが肝心なのだから。ブヒ。言葉にならない声が漏れる。諦めたとたんにいままで知っていた、知っているつもりだった言葉が頭の中からこぼれていく。そしておそらくその次には生き物であることすら諦めることになるのだということなど、思いもよらない私はひたすら地面の上を這いずりまわる存在になった。

                                           了


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