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第九百三十話 死者からの物語 [幻想譚]

 ある駅を降り立って、いつものように妹一家が暮らす家へと向かう。月に一度、ときには週末毎に訪ねる妹の嫁ぎ先は都心から二時間も離れた近郊の町で、いまだに独身生活に甘んじている私を疎んじることもなく招き入れてくれるのだ。と、こんな風にさも平凡な姉妹の物語として語られていくその後半で、知らず事故や事件に巻き込まれてしまい、気がつけば葬儀の席に迷い込んでしまう。はて、なんだこれは、誰の葬儀かと思えば実は自分の・・・・・・。

 こうした怪異譚はよくある手口なのだが、ここでふと思う。一人称の「私」で語られているのに、最後には「私」は死んでしまっていて、下手をすればそのまま魂が天に召されて終わるのはいいが、ではこの物語はいったい誰が語っていたのかと不思議に思う。もちろん小説=作り話のことだからそんなもの、作り手である第三者が語ってるのだとか、いやいや実は神の視点なのだよとか、理屈は後からいくらでもつけられるのかもしれないが、いったんおかしいなと思ってしまうと、どうしても素直に物語を受け入れることができなくなってしまうのだ。だって死人が生きているように語り、最後にはそうさ、自分はもう死んでいるんだだなんて明かすのはおかしいじゃないか。

 そこで作り手たちは、そう、この物語は亡くなった人の手記をもとに編纂されたものだとか、実は家庭用ビデオに収められていたんだとか、もっともらしい種明かしをくっつけてリアリティを加味してみたりする。そうすることによって嘘の話でさえ実際にあった話に基づいているんだと信じ込む人間も出てきて、物語はどんどんひとり歩きしていく。嘘まみれの世の中で、人々は真実の物語を希求しているから。

 しかし、ほんとうはそんな嘘をでっちあげる必要なんてない。死んでしまった人間は、自分ではその経験談を語ることなどできないけれども、生き残っている他人の口や手を借りることはできるわけだから。そんな幽霊みたいな話は信じないぞという人もいるだろうが、無理に信じる必要はない。信じたくなければ他の説を信じるなり、一切こういう話に目を閉ざすなり、それは個人の自由なのだからね。だが、世に怪異譚や幽霊話があまたあるのはなぜかと考えてみると、自ずから答えは出ているようなものだ。火のないところに煙は出ないという諺どおりにね。死者が生者の口を借りて語らなければ、どうやって自分が死に至ったのかなどという物語がこの世に残るはずがない。

 いまここで話しているこの話も、実はこの書き手の意識に入り込んで書かせているものなのだが、なぜそうしてまでしてこの意見を伝えたかったのかって問われてもぼくには答えようがない。ぼくは誰かに殺されたわけでも、変死したわけでもなく、この世になんらか未練を残して死んでしまったということでもないから、敢えてこの世に送りたいメッセージも持たないのだけれども、ぼくだって生前書き手の片割れだったことを思い出して、死者からの物語を、誰がどうやって語るのかという大問題について、少しだけ意見したくなっただけなんだ。まぁ、信じるか信じないかは自由なんだけどね。

                                        了


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