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第九百四十一話 疑似餌 [空想譚]

 釣りに関しては詳しいわけではない。学生時代の友人がブラックバス釣りにはまっていて、様々なルアーを集めていた。ルアーとは、湖のブラックバスや海のスズキなんかを釣るときに使う疑似餌と呼ばれるもので、魚の形をしたプラスチックのものもあれば、鳥の羽根なんかを利用して虫に似たものまでいろいろあった。友人は主に羽根のついた虫に見たてたルアーを集めていて、それがなかなか美しい造形だったのでぼくも興味津々だった覚えがある。実際の釣りには付き合ったことはないが、釣り糸の先につけた疑似餌を空中や水面で飛び跳ねさせて魚を誘導し、食いつかせるというやり方だけはなゆとなく教えてもらった。

 疑似餌のことを急に思い出したのは、それと同じようなものがスボーツウェア売り場のディスプレイに使われていたからだ。そこは釣り道具の売り場ではなかったが、マリンスポーツ関連のウェアのセール中で、水着姿の女性マネキンの横に立つ男性マネキンが着ているポロシャツの胸元につけられていた。なるほど、そんな風におしゃれ小道具として使う方法もあったんだなと少しだけ感心して眺めていたら、後ろから声をかけられた。

「それって、ルアーなんですよね?」

 ぼくより少し若い年頃の女性で、釣りやスポーツなど似つかわしくないような都会的なスタイルに身を包んだ賢そうな女だった。一目見てぼくは好みだなと感じた。

「ええ、そうですね。こんな使い方もあるんですね」

 ぼくの答えに満足したのかどうかわからなかったが、とにかくにっこり笑い返す彼女の態度に、すっかり打ち解けた気分になってしまったぼくは大胆にも軟派しようという気になった。

「あのう、ぼくはルアーにはあまり興味はないのですが、美味しいコーヒーは好きなんですよ。よかったら一緒にいかがですか?」

 一瞬ピクリと動いた彼女の表情に、失敗したかと思ったが、すぐに彼女は笑顔で答えた。

「あら素敵。いいですね。ぜひお供させてくださいな」

 やった、心の中でガッツポーズをしたぼくが彼女の背中に手をあててエスコートしようとしたその途端、ぼくは彼女と共に瞬間移動をはじめた。どうなっているのかわからないが、身体が重力を失って、どこか高いところへ飛びあがっている。彼女は笑顔を凍りつかせたままその手でしっかりとぼくをつかんで離そうとしない。いきなりぼくは理解した。そうか、ぼくは釣り上げられたんだ。彼女と思ったこれは何者かによって人間そっくりに作られた疑似餌だったんだと。

                      了


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