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第九百三十一話 盆休みの終わりに [幻想譚]

 盆休みという言葉にはなにか特別な印象がつきまとう。夏休みでも夏季休暇でもない、ただお休みをするということではないなにか。私の実家は遠い田舎にあるわけではなく、住まいからほんの一時間ほどのところにあるので、普段いつでも帰ることができた。しかしそれほど近くにありながら、実際には仕事や日常の些事にかまけて実家に足を運ぶのは盆と正月とあと数回くらいのことだった。

 父親が亡くなったあとの十数年間、母親がひとりで実家を守っていたのだが、盆には必ず子供一家が帰ってくると信じて待っていたのだと思う。それなのに盆休みを迎えた私の一家はまず家族旅行をして、そのついでに実家に立ち寄るというようなことをしていた。それでも母は文句のひとつもいわず、仏壇に燈明を灯し、ひとり墓参りを済ませて、私たち一家のためにごちそうを用意して待ってくれていた。昔ならばたくさん兄弟がいて盆や正月の実家は夫婦子供で賑やかになっていただろうが、私たちは二人兄弟で、しかも兄は東京なので、二年に一度くらいしか帰って来ないのだった。

 古くからあるような実家ではなく、まだ独身だった私が同居していた頃に鉄骨に建て替えたような家で、物語に描かれるような古い階段も、煤だらけの天上裏もない、モダンな佇まいだったが、それでも燈明に灯が入り、線香に煙が上がると、いかにもお盆という雰囲気が漂ってくる。小家族ではあったが、久しぶりに親子が大テーブルを囲み、それなりに賑やかな数日間を過ごしたものだ。しかしそれすらもいまは過去の話。四年前に母親が逝ってしまってからは、実家は空き家になり、法要のために兄が泊まりに来るだけの場所になってしまった。

 がらんとひと気がなくなってしまった広間に、年に一度兄夫婦が泊まりにやって来る。私もそれに合わせて法要に参加するのだが、夜になってそこで一家の晩餐をするでもなく、用事を済ませると皆で外食をして三々五々帰っていく。母がいなくなった実家が迎える盆休みはそんな風に変わってしまっていた。

 そもそもこの家の主で会った父や母はこのような変化をどう感じているのだろうなどと、思ったことがなかった。父母は既に仏壇の中にいて、法要や墓参りをしているからそれで満足だろうと思っていた。けれども、家というものはそんな気楽なものではなかったのかもしれない。お参りをすればいいだなんて、なんと心のこもらない行為だったことか。いまになってそれがわかる。母が生きている間はそうでもなかったのだろうが、家が空き家になってからというもの、ほんとうのところは、父も母もせめて盆や正月くらいは、この家を賑やかにしてほしかったようだ。

 今年も早々に盆の法要を済ませて東京へ帰っていく兄一家の後姿を、玄関のところで生前と同じ姿の父母が静かに見送っている。去年まではそんな姿を見ることができなかった私は、父母の後ろに立ってその姿を眺めている。兄一家の姿が見えなくなるとようやく父母は振り返って少しだけさみしそうな表情で私に頬笑みかける。私たちは黙って家の中に戻り、今度は三人で大テーブルを囲んでしばしの盆休みを楽しむのだ。

                                               了


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