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第九百八十七話 お留守番 [文学譚]

 わたしは畳の上に寝転がって、声に耳を傾けていた。赤い服を着た女の子がおばあちゃんの家を訪ねていく物語。赤い色も服の形も女の子の顔もなんども見ている絵本が教えてくれているのだけれども、音だけ聞いているとまた違う印象が浮かんでくるのがおもしろい。わたしは想像力を膨らませながら過ごすこの時間がたいそう気に入って、毎日のように音を聴きながら絵本を眺めていた。

 いつもあんまり夢中になるので、お母さんが台所から呼びかけても気がつかない。お母さんはいつもわたしがステレオの前でおとなしくしている間に台所の片づけや部屋の掃除を済ませてしまう。家の中の用事が済んだら、お買い物に出かけることもあって、一緒に行く? とわたしに声をかけるのだけれども、その日のわたしは声をかけられたことにまったく気がつかないほ絵本と朗読に夢中だった。

 物語が終わってしまうと、いきなり部屋の中が静まり返る。柱時計にぶら下がった振り子の音だけが響いていて、この世の中には柱時計しかないんではないかと思った。台所に耳を澄ませても、物音ひとつしない。わたしはのろのろと半身だけを起こして、いざりのように腕だけでずるずると襖のあたりまで移動する。首だけを廊下につきだす格好で、お母さんと読んでみるけど、返事はない。もう一度呼ぶ。屋根の上を烏が鳴きながら飛んでいく。

 お母さん、お母さ~ん。

 何度も読んでいるうちに捨てられてしまった気がしてきて、涙があふれてくる。

 お母さ~ん。お母さ~ん。

 ついにわたしは立ち上がってお母さんがいるはずの場所に向かった。台所はきれいに片づけられていてどこかのショールームみたいだ。コンロの上に置かれた鍋にはきちんと蓋がしてあって湯気もたっていない。お母さんがとんとんと音を立てるまな板だって洗い場の隅に立てかけられていて、布巾が被せられている。食卓の上もきれいに片付いてなにもなく、それがいっそう寂寥感を煽る。両親の寝室の襖を開けてみると、人影一つなく、座布団の上にお母さんの抜け殻が畳んで置いている。お父さんと兄ちゃんがなぜいないのか知っているけれども、お母さんがいないのはなぜなのかわからなかった。やっぱり捨てられてしまったのではないか。まるでこの世に生き残った最後の一人になってしまったような気持ちに襲われる。ほんとうはお母さんがなぜいないのかわかっているのに、なぜか涙が次々にあふれてきて、お母さんを呼ぶ。涙が声を押し出し、泣き声がまた涙をあふれさせる。

 元の部屋に泣きながら戻って身体を横たえると、いつの間にか眠ってしまった。眠かったわけではないが、泣き疲れてしまったのだ。数秒か数分か数時間かわからないけれど、目を覚ますとやはり家の中は静かだった。わたしは再び家中を見て回ったけど、誰もいなかった。床の上にあったはずの絵本は消えていて、畳はフローリングに変わっている。コンポが置いてあるチェストのところに写真立てがいくつかあって、お線香立てがある。フレームの中の父も母もいい顔で微笑んでいる。お母さん。わたしは小さく呼んでみる。そしてもう一度。

 お母さん! 

 名を呼んだだけでなぜかわからないけど再び涙が涌いてくる。お母さんと涙はセットみたいになっている。あのとき、いつかお母さんが死んでしまったらどうしようと、胸が痛くなった。死ぬということがどういうことさえまだわかっていなかったのに、もう二度と会えないことなのだとわかっていた。わたしは何十年先の今日のことを予感していたのかもしれない。

                                                                                                                                              了


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