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第九百八十一話 朗々回顧 [文学譚]

 光沢のある石塀をやり過ごすと間もなく木目の分厚い扉が閉じている。その前に立つと扉は自然に左右に開いた。中にはもう一枚同じような分厚い扉があって、こちらは自動では開かない。鞄の中の小分け袋から鍵を取り出し扉の手前にある石台に彫りこまれている鍵穴に差し込むとようやく扉が開いた。中はまだ自分の家ではなくピロティと呼ばれるちょっとした広間がある。床は人工大理石が敷き詰められ幾何学模様に象嵌処理されたエンブレムが描かれている。壁際にいくつも並んでいる銀色の小箱のひとつがわたしの持ち分なの、その蓋を開けて何か入っていないか調べる。いつものようにつまらない広告散らしといったものが数枚入っている。ゴミにしかならないこのようなものを一体誰が入れていくのだろうかと思うが、捨てておくわけにもいかず、とりあえずそれを取り出す。

 ピロティの奥にはまた扉があってその横にある釦を押しこむと口を開けた。中は小部屋になっていて、一歩入ると自動的に扉が閉まる。内側にはいくつもの釦が並んでいて、わたしの部屋がある階数の数字を押す。部屋は重力に逆らって上昇しはじめ、数秒後に再び扉を開く。吐き出されたわたしはようやく自室の前にたどりつき、先ほどの鍵を鍵穴に差し込んで室内に入る。

 部屋はしんとして空気がひんやりしている。

「ただいま」

 声をかけるが返事がない。

「母上、眠っているの?」

 開けはなれたままの寝室を覗き込むとやはり母はベッドの上にいた。わたしの気配を感じ取ったのか横たわって目を閉じたまま言った。

「あら、早かったのね」

「あらあら、こんな時間に眠っていたんじゃ、夜になってまた眠れないとかおっしゃるんじゃぁないですの?」

 母はようやく瞼を開いて少し顔を起こすようにしてわたしを見た。

「まぁ、そうだったわね。わたしったらさっきまでテレビジョンを見ていたのですけれど、なんだか肩が冷えてきてねえ、ちょっとお布団にもぐりこんでしまったの。そうしたら眠ってしまったみたいね」

 今日に限ったことではない。母はたいてい眠っている。ご飯を食べてしばらくテレビジョンを見るのだが、そうしているうちにうつらうつらと眠気に誘われるようだ。中年を過ぎると次第に睡眠時間が少なくなっていくものだが、さらに歳をとると、赤子のように眠ってばかりになるのだろうか。昼間さんざん眠っているものだから、夜になると逆に眼が冴えてしまって眠れない、睡眠薬がほしいと騒ぐのである。明りを消した深夜に一人目覚めているというのは誰だって寂寥を感じるものだと思うが、年寄りにとっては寂しいというよりは恐怖でさえあるようで、眠れない眠れないと文句ばかり言う。それなら昼間起きていたらいいのにと思うのだが、そうはさせてもらえないのが老人の身体というものなのだろう。

「沙代子さん、今日の夕食はなにになさるの?」

「まぁお母様、よほどお腹がすいてらっしゃるのね。今夜は秋刀魚を焼こうと思っていますの」

「おや、秋刀魚かえ。それは美味しそうだこと。そう言えばもうそんな季節になったのですわね」

「では、お着替えをして準備に取り掛かりますから、お母様はゆっくりされてから食堂にお越しなさいませね」

 こんな悠長なやり取りができるのも、ふたりきりだからだ。子供や他の家族など大勢いるような家庭では作るお料理の料を考えてみても、一息ついている暇さえないだろう。長らく独身の一人暮らしを通してきたわたしだったが、父親が亡くなった後もずっと一人で住んでいた母が脳梗塞で倒れたのを機会に引き取ることにしたのだ。お嬢様育ちの母は大きな一軒家にこだわったのだが、なんとか説得して売り払い、都心にある近代的な作りの集合住宅と呼ばれるわたしの住まいに連れ帰ったのだ。母娘ふたりの暮らしはつましくも和やかなものではあるが、ひとつ困ってしまうのは、罹病以来、母の記憶が過去に置き去りにされてしまい、どういうわけだか明治時代のような言葉に変わってしまっていることだ。母は明治生まれでも大正生まれでもないのだが、文学少女だったおかげで昔の言葉が数多く蓄えられており、脳梗塞をきっかけにそういう回顧的な言葉が言語中枢を支配してしまったらしいのだ。ノート型パソコンのことを不思議玉手箱と呼び、テレビのことは最近ようやくテレビジョンと呼ぶようになったが、ちょっと前まではからくり紙芝居と呼んでいた。母の理性に調子を合わせているうちにわたしの言葉まで母に毒されてしまい、下手をすれば家以外でも古めかしい言葉が出てきそうになる。

 幸いまだ惚けてまではいず、介護が必要とまではなっていないが、その一歩手前のところで濁点が外れた「回顧」という生活を続けているのが現状である。

                                                 了


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