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第九百八十二話 小説書きの第一歩 [文学譚]

 扉が開くといきなり往来の騒音に襲われた。それほど密閉性が高いのか、建物の中にいるとあまりに静かで外の様子など皆目わからない。耳栓をして潜っていた水中から浮上するといきなり水面の風の音に襲われる、そんな感じだ。騒音のほとんどは車の走行音で右からやってくる乗用車が比較的静かに走り去ったかと思うとすぐに左からトラックが走ってきてそれはものすごいエンジン音を放って逃げていく。無菌室から解放されたばかりの小動物のように両手で耳をふさぎたくなる。それに大型トラックは音ばかりでなくどどどどと足もとまで揺らしながら走るのだから恐怖さえ覚えてしまう。その後通り過ぎていく小型車などは可愛いカモシカかなにかに思えてしまうほどだった。

 やがて耳が慣れてしまうともう車の走行音などはさして気にもならなくなって、それまで気がつかなかった小さな音が耳に入る。雀の親子が鳴きながら飛び去っていくのを見つけて見上げると、そこには気持のいいほどの青空が広がっていて今日はこんなにいい天気だったんだとはじめて気がつく。出かけるときには雨が降るかどうかだけを気にし過ぎていて、ここまで青空かどうかなんて考えもしなかった。しかし好天であることに気づいてみると、なんだか今日一日が決して悪い日ではないような予感がしてきて心が軽くなる。どこからか吹いてくる微風は心地よく、あれほど暑かった夏の記憶が嘘だったのではないかと思い、またこれからはどんどん気温が下がっていくことなど想像もできないくらいにちょうどいい肌感覚に思わず微笑みがこぼれてしまった。

 扉を出たところの歩道は三十センチ四方のタイル状のコンクリートが連続して貼り付けられているのだが、子供のころにはこういう格子状の足元を見つけると一枚ずつ踏みながら、あるいは一枚飛ばし、二枚飛ばしという具合に、場合によってはケンパという遊びを取り入れながら歩いたものだが、そういう記憶が甦る。まさか大人になったいまはそのようなことはしないにしても、時々は心の中で一枚飛ばし二枚飛ばしを気にしながら歩いてしまうのは、足もとのパターンというものがそれほど人の行為に影響するということなのだろうか。わたしは目の前のどのタイルに向けて第一歩を踏み出そうかと迷っている。どのタイルも同じに違いないのだが、もしかしたら右のタイルから歩きはじめた場合と左のタイルから歩きはじめた場合とでは、一日の運勢が変わってしまうかもしれないと子供じみた迷信のような思いが急に湧き出てきたからだ。馬鹿みたいだな、自分でもそう思うのだが、心というものは複雑だ。右足から始めるか、左足からはじめるか、そんなことさえ気にする人が世の中にはいるくらいだから、たまたまある朝の第一歩をそのように迷ったとしても誰に文句を言われる筋合いのものではない。

 しばらく迷った挙句、わたしは左側のタイルの上に右足を乗せるということからはじめることを決めた。そんなに大げさに考える必要などないにも関わらず、いったんそう決めたらとてつもなく大事なことのように思えてしまうのだ。わたしは息を整え、軽く一呼吸した上で右足を持ちあげようとして、右の股関節あたりに違和感を覚える。つっ。そういえば半年ばかり前から股関節のあたりがきしきしと痛むのだ。ひどくはないが、ちょっとした動きでぴくっとすることがある。人にいうと、歳だとか運動不足だとかもっともらしいことを言う。昨夜も風呂桶の中で思い出して股関節あたりを動かしながらマッサージしたのだが、そのくらいではとても改善されないようだ。持ち上げかけた右足をそのまま慣性で地面から遠ざけ、一枚目のタイル目がけて下ろそうとしたその時、タイルの上に小さな黒い点を見つけた。なんだ? 黒い点は案外早い速度で動いている。なんだ、蟻じゃない。こんな無機質なコンクリートの上にも蟻がいるということ自体が不思議な気がしたが、わたしが決めたばかりのタイルの上を、この蟻もまた選んで歩いているというのがいっそう不思議な感覚をもたらした。

 このまま足を下ろしては踏み潰してしまう。そう思えたから足の動きをいったん止めようとするのだが、動き出した物はそう簡単には止められない。だがいささか緩慢になった動きのおかげで、右足が空中にある間に黒い点は次のタイルに移動した。

 ようやく一枚目のタイルの上に右足を収めながらわたしは思った。玄関扉が開いてからどの位の時間が過ぎたのだろう。車の音を聞き、雀の親子を眺め、子供自分の思い出に浸っていたその時間はすごく長いような気もするし、一瞬であったような気もする。時間というものはこれもまた不思議なものだ。ねずみ時間と象時間なんていう書物もあるほどで、そんな知識を持たずとも、子供のときに遊んでいた時間と大人になってから働いている時間の長さには大きな隔たりがあるように感じているのはわたしばかりではないはずだ。一日とはあんなに長かったのに、いまはウルトラマンのように時間は飛び去って年老いていく……いやいや、また思考に浸ってしまうところだった。

 そういえば先はまだ長い。わたしは玄関からまだ一歩しか進んでいないのだ。

                                                     了


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