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第九百八十六話 ソルトアンドシュガー [文学譚]

「まさか、そんな」

 右手に円柱形の容器を持ったまま、しばらく呆然と考えていた。いままで一度もこんなことはなかった。この白い大理石のテーブルを買ったときも、数多い選択肢の中から迷わずこのテーブルを選んだ。人は選択肢が増えれば増えるほど迷いが生じて誤った選択をしてしまうものだ。だが私は間違わなかった。ダイニングの床面積をきちんと把握していて、こげ茶のフローリングとの配色も視野に入れ、寸法通りのものを選び抜いた。もちろん四つの椅子も同じように正確に選び抜いた。十年使い込んだいまでもあのときの選択に狂いはなかったと満足しているくらいだ。このマグカップもそう。似たようなものが多い中で、フランス雑貨ブランドのシンプルなものを選んだ。これか大理石のテーブル天板にほどよくマッチして朝の珈琲をいっそう美味しくしてくれるのだ。

 こうしてあらゆるジャンルにおいて正しいチョイスをしてきた私が、こんな間違いを犯すなんて、信じられない。

「いや、まだ間違いと決まったわけではないか」

 ひとりごちながら、容器を大理石の上に戻す。そうだ、間違いだったかどうかなんて、まだわかっちゃいないんだ。しかし、それがわかるまでにそう時間はかからないだろう。いっそう、このまま間違いだったかどうかうやむやにしておきたい気持ちが芽生える。どうしようか。なかったことにしてしまうか? そんなことをしてどうなる。私はマグカップに手をかける。大きくアールのついたカップの持ち手が指に意外なほどの冷たさを伝える。一瞬指を引っ込めてしまうが、思い直してもう一度指を伸ばす。

 カップを持ち上げ、ゆっくりと口元に運びながらもまだまよっている。もし、間違っていたらどうしたらいいのだ。やり直すのか? それともこのまま最後までやり過ごすのか。もしかするとやり直したくてもできないことも想定しておく必要があるかもしれない。私はカップを口元に持ち上げたまま、静かに深呼吸をした。

芳ばしい珈琲の香りが鼻腔に漂う。美味そうだ。豆はキリマンジャロがいいとか、ガテマラだとか、他人はいろいろと講釈を垂れるが、私はあの店でブレンドされたものが世界一美味いと思う。酸味もなく、苦味も少なく、薄めに淹れたときにちょうどいい。昔はブラックで飲んだのに、最近になって甘味を求めるようになった。疲れているからかもしれない。あるいは、糖尿気味なのかもしれない。いずれにしても子供の頃そうだったように、スプーンに二杯の砂糖を入れて飲む習慣がついてしまった。

 いつまでも思案していてもはじまらない。わたしはついに心を決めた。はっきりさせるのだ。結果はどうあれ、曖昧なまま放置するなんて大人の男がするものではない。思い切ることが大事なのだ。私はカップに口をつけ、濃厚に見える液体を流し込む。その刹那、視線がテーブルの上に落ちる。二つの同じ容器にはよく似た白い粉末がたっぷり入っている。いったい誰がこのようなことをしたのだろうか。同じ容器に似た粉を入れておくなんて。もちろんそれは妻の仕業に決まっている。私でなければ妻しかこの家にはいないのだから。美しい容器だからこそ、二つ同じように扱いたかったのだろう、そうに違いない。熱い液体が口の中に入り、私の舌を濡らす。しばしの間をおいて、舌が悲鳴を上げる。

 しょ、しょっぱい。

 結果がわかった。やはり、間違いだった。私は珈琲に塩を入れてしまっていたのだ。

                                              了


 

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