第九百八十五話 お・も・て・な・し条例 [可笑譚]
二千十三年九月八日、二千二十年の東京オリンピック開催が決定した。日本へのオリンピック招致 を実現したのは招致委員会全員の努力の賜物なのだが、中でもIOCを中心とした海外の委員たちの心に響くプレゼンテーションに成功したと評価されたのがフ ランス語を見事に操って語った滝川クリスタルで、そのキーワードとなったのが「おもてなし」という言葉だったことは記憶に新しい。
東京開催が決定した後、政府は開催に向けて様々な施策を考案し、オリンピックの成功に向けた事業に取り組んだ。その中でも後に賛否わかれることになる「お もてなし条例」が施行された。これは海外から訪れる観光客を最大限のホスピタリティで迎えようというものでそれ自体は悪くないのだが、そのキーワードにあ のプレゼンテーションの言葉が用いられたことが国内に大いなる混乱をもたらした。
人々はすべからくあの日の滝川クリステルのポーズを真似ておもてなしを語り、おもてなしを実践した。
「ご注文はお決まりですか?」
「この力うどんをお願いします」
あるうどん屋での会話である。
「ああ、すみません。どういうわけか今日はそのメニューが大人気でして、肝心の具材が切れてしまいまして……」
「え? 具材が売り切れ?」
「はぁ、そうなんです。つまり、お・も・ち・な・し。お餅なし」
店主は客に向かって両手を合わせた。
隣の喫茶店では、若いカップルがもめていた。
「ねぇ、私のこと邪魔だって思ってるでしょう?」
「そ、そんなことないよ。なに言ってるんだ」
「うそ。最近とても冷たい態度はおかしいわ。私がいなくなればいいと思ってるでしょ!」
「ばかな! 俺がそんなこと思うわけがない」
「いいや、思ってる!」
男は顔の前で左手でなにかをつまむようなポーズで言って、両手を合わせた。
「お・も・て・な・い。思てない」
女の田舎では母親が胡瓜を漬けていたのだが、いつもの桶に糠と胡瓜を入れたものの、重しにしている石が見当たらない。
「ねぇ、あんたぁ。いつもの石、知らない?」
「石ってなんだよ」
「ほら、漬け物石よう」
「知らんなぁ。わし、そんなもの触ったことないぞ」
「おかしいわねえ、ないのよ。何か変わりになるものないかしら?」
夫はしばらく考えてから、顔の前に左手を突き出して言った。
「お・も・し・な・し。重しなし」
大阪の寄席では若手の漫才を見ていた常連客があくびをしながら左手を顔の前に持っていって言った。
「お・も・ろ・な・い。オモロない」
こんな具合に、日本中がどんどん滝川ポーズに毒されていって、元来あるべきホスピタリティの精神はどこへやら、人々はおもしろがって、いかに「お・も・ て・な・し」をもじった言葉を編み出すかに血道を上げるようになってしまったのだ。本来のおもてなし施策はすっかり裏の施策に陥ってしまった。
世の中の情勢を知った首相はこんなことではいけないと、急遽記者会見を開いた。この以上な事態を収拾するために、国民になにをどう語ればいいのか迷いに迷った首相は、テレビカメラの前でひと呼吸おいてから口を開いた。
「国民のみなさん。おもてなし条例が間違った方向に傾いてしまっています。こんなことではオリンピックに向けたこの条例が無意味なものになってしまうと危惧しています。いまのままでは、このおもてなし条例は……」
首相は左手を顔の前に突き出して言った。
「お・も・て・な・し。表なし」
首相は両手を合わせて頭を下げるのだった。
了
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