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第九百二十四話 反乱 [変身譚]

 学校を出てからもう三十五年間、地道にコツコツ働いてきた。そのお蔭で今日までなにごともなく平穏無事に暮らしてきてあと数年で定年退職という年齢になってしまった。この大企業で課長職にまでなれたんだから、これで充分だと思っているのだけれども、妻に言わせれば課長止まりねと残念がる。酒も賭けごともしない、もちろん風俗なんて若いころに一度行ったきりという私は、思えば家と会社の間を往復するだけの毎日で、せっせせっせと月に一度の給料を妻子のために運ぶ働き蟻の人生だった。もちろん子供を持ったことは喜びだし、家族を養うことを苦に思ったことは一度もなかったはずなのだが……。

「課長、イントラ書類の承認まだっすかぁ?」

 ああ、すまんすまん、今日はまだチェックしていなかったな。えーっと、どれだ? あ、ああ。これか。わかった。これで良し。

「ちょっと課長、そうじゃなくってここのところを見てもらわないと」

 え? ああ、すまん。どうもいまだに、こういうパソコンで書類を扱うのに馴染まなくてなぁ。これ、わかりにくいよなぁ。

「え? そうですかぁ。ぼくには簡単なことっすけどねぇ。しっかりお願いしまっすよぉ」

 最近の若者は口のきき方を知らない。生意気なのは若さの特権だから仕方ないとして、もうちょっと礼儀というものを学んでもらわないとな。しかし、そういうことを言うと、課長もPCの勉強してくださいよぉなんて言い返されるな、間違いなく。困ったもんだ。まぁ、定年までの我慢かな。

 息子が成人して家を出て行ったのが五年前。少しさみしい気持ちと、子育てを終えた安堵感が入り混じった一年間を過ごした後は、夫婦二人の生活に馴染んでいった。妻はまた働くようになって、稼いだお金でダンス教室に行ったり、職場の仲間と飲み歩いたり、以前よりも楽しそうにしている。私としては二人でゆっくりと家でくつろぎたいのだけれどなぁ。

「あなたもなにか習いごとでもしてみたら? 歳とって無趣味だなんて辛いわよ」

 そんなこと言ったって、どこにそんな余裕があるんだ? 家のローンはまだまだ残っているし、来年には定年退職を控えた私は管理職も解除されて収入が激減するんだぞ。どうすんだ。それに退職後のことも考えなければ。

 将来のことなど考えたくない。若いころには未来があったが、定年間近ないまはもう未来なんて考えられない。ローンの残債。少ない年金。老後の生活。その生活費。会社を辞めたあとの長い人生。バブルがはじけた折にマイホーム購入で失敗してしまった私はいまだに大きな負債を抱えているのがなによりもネックになっているのだ。そのために家と会社を往復するだけの人生に甘んじたし、否応なしにそうするしかなかった。考えたくない。そんな過去のことなど考えても仕方ない。未来のことは……考えたくない。考えられない。このところ毎晩のように将来のことを考えてしまって、頭の中がもやもやし続けている。日に日にもやもやは色濃くなり、端っこの方から焦げ臭い煙を上げはじめた。自分自身でもよくわからないが、頭の中がくすんで、煙の底には小さな火があがった。

「あなた、どうしたの? 今日はお休みなの?」

「いや、会社だけど」

「でもその格好は……コスプレ?」

「なにがコスプレだ。これはあいつが着てただろう、高校の文化祭でライブやったときに」

「まぁ、よくそんなの見つけたわね。キッスかなにかの真似をしてたときの・・・・・・でもなんでそんな?」

「私・・・・・・いや、俺は自由に生きるんだ。もう、なんにも縛られたくない。金にも、会社にも、そしてお前にも」

「あなた、大丈夫・・・・・・?」

 大丈夫に決まってる。いまこそ俺は俺になったんだ。新しい俺で私の未来を取り戻すんだよ。

 三十五年かけて、私の中で静かに育っていたなにかが、今朝になって反乱を起こしたのだということに、このときまだ私自身は気がついていないのだった。

                                                   了


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