SSブログ

第九百十九話 宇さんの気持ち [変身譚]

 リビングルームに入ると黴臭さか獣臭いかわからないが、独特の臭いが漂っていた。昨夜寝る前にエアコンを切り、窓を開け放っていたせいで、ベランダに置いたごみ箱から漂ってくる匂いなのだろうと思った。冬場には感じないことだが、夏場は気温のせいなのだろう、家にいても通りを歩いていてもそのような一種独特の臭いがしてくるのは、私の花が敏感だからだけではないと思う。少なくとも実際にごみや糞尿の臭い粒子がそこかしこに漂っているに違いない。しかし幸か不幸か、人間は臭いというものへの順応性が高い。最初は臭いと思っていてもしばらくその空気を吸っているうちにあまり感じなくなってしまうのだ。それはだれしもが経験していることに違いない。 そんなわけで私はまだ室温の上がっていない、開け放った窓からはぬるい風が吹き込んでくるリビングで深呼吸をしてから冷蔵庫を開いて牛乳やヨーグルトを取り出し、一方ではコーヒーメーカーとトースターをセットして、朝食を整えながら同居人が起きて来るのを待った。

 キッチンでがちゃがちゃやっているとたいていすぐにどちらかが起きだしてきて、その誰かの気配でもう一人も目を覚ます。最初におはようと起きてきたのは居候の宇さんだ。私の横を通り過ぎながら大きなあくびをしてテーブルについたのだが彼の口臭が少し気になった。誰でも起きぬけには閉じた口の中に胃袋から逆流してきた臭いがたまっているのだから仕方がない。妻の美樹もすぐに起きてきて宇さんの横に座った。

 ここまでのところも、この後も、何でもない一家のいつも通りの平凡な朝食風景で特筆することなどなにひとつないはずなのだが、コーヒーで口をすすいだ宇さんが急にいつにないことを言い出した。

「ねぇ、ぼくはどう見えているの?」

 いきなりどう見えているのかなんて言われて、どんな答えを用意できる?

「どうって、どういうこと? 誰かになにか言われた?」

「いいや。なんにも。けど、みんなぼくのことをどう思ってるんだろうか気になって」

「やっぱりなにかあったんじゃないの?」

 妻が横から口を出す。

「いや、別になにも。けど、前から気になってたんだ。だってぼくは……」

「なんだよ宇さん。君はそんなこと気にするような人だったっけ?」

「そりゃぁぼくだって気になるさ。どんな些細なことでも」

「ふぅん、宇さんって案外デリケートだったのね」

「あっ。ひどいなあ。鈍感だと思ってたの?」

「確かに。それはひどい」

「だからさ、ほんと。そろそろほんとうのことを言ってくれてもいいんじゃないかな」

「ほんとうのことって、なに」

「いや、だから、ぼくはほんとうのところ皆からどう見られているか、どう思われているかってことよ」

「ふーん、そんなこと考えたことないなぁ」

 私は少しだけ嘘をついた。なぜなら、ほんとうは最初はみんな戸惑っていたし、どう対応したらいいかって顔をしてたんだもの。近所のひとたちも、宇さんが私と一緒に勤めている会社の中でも、そのうちみんな慣れてきて、ようやくなんでもない感じになってきているのだ。それをいまさらほじくり返して宇さんに伝えたところでなんになる? 宇さんが逆に変な感じになってしまうだけかもしれないではないか。

「そうなの? ほんとうにそう?」

 問い詰められると私のように正直すぎる人間は顔に出てしまうものだ。だが、宇さんは人の顔色を読み取るのはあまり得意ではない。なぜならまだこの社会での生活期間が短いから。

「ぼくの顔や手の色、みんなとだいぶ違うでしょ? それに顔のつくりだってずいぶん似せたけれども、これが限界なんだし」

「いやいや、皮膚の色なんてみんな違うものさ。そりゃぁ、外国には黒い人や白い人はいるわけだけどね。宇さんだってそんな感じで、外国から来たんだってみんな思ってるさ」

「そうかなぁ。それならいいんだけれど」

 正直、緑色の皮膚なんて最初はぞっとしなかった。これだけ人相を変えてしまう技術があるのなら、顔色なんて簡単に変えられるのではないかと思うのだが、そうではないらしい。顔の造作だって、基本的には人間とほぼ同じ構造だからなんとかなっているものの、これで目が三つあるだとか、鼻が頭のてっぺんにあったりなんかしたらたぶん修正は不可能なんだろう。目が二つ、耳が二つ、鼻と口がひとつ。人間と同じだから後はそのレイアウトを少し調整するだけ。それにしても宇さんの目は少し離れ過ぎているし、口はとんがり過ぎているというのが事実だ。それでも世の中には宇さんに似たような人間はどこかにいるはずで、人類として並はずれているという感じではない。むしろ離れた大きな目は、おもちゃの人形のようで愛きょうさえ感じさせる。

 五年前、遠い星からやってきてうちに居候するようになった宇さんは、もうすっかり地球に馴染んでいるんだとばかり思っていたけれども、やはりまだいろいろなことが気になっているのだ。家族の一員として迎え入れている私としては、そんな心配事に気づかずにいた自分を少し恥じ、宇さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいになった。そういえば彼の本名はとても私たちには発音できないからといって、彼に中国人みたいな「宇 宙人(う・ひろと)」なんて安易な名前をつけてしまった責任は最初から感じていたのだけれども。

                                                    了

 


読んだよ!オモロー(^o^)(7)  感想(0)  トラックバック(0) 

読んだよ!オモロー(^o^) 7

感想 0

感想を書く

お名前:
URL:
感想:

Facebook コメント

トラックバック 0

トラックバックの受付は締め切りました

 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。