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第八百二十八話 姨捨て部屋伝説 [妖精譚]

 

 梅子は大きなダンボール箱を抱えて地下一階にある庶務B室の扉を開けた。部屋は窓がないから当然かもしれないが薄暗く、さほど広くないのに奥の方がよくわからない。スチール棚に雑然と積み上げられた数々の資料が鬱積していた。

 

 過去には総合職として数々の営業実績を上げ、社内の女子社員の中でも勝ち組だと思っていた梅子だったが、五十歳を過ぎてからは仕事が激減し、担当していた仕事はすべて若い社員に振替られてもまだ、自分はすでに実績を上げているから大丈夫だと思っていた。影ではお局様と呼ばれていることも知っていたが、言わせておけばいいと思っていたのだが、この春の人事移動で遂に姥捨て部屋と囁かれている部署に配置替えされてしまった。庶務課(A)をサポートする庶務Bとは名ばかりで、実際は社内のクリップの数を数えたり、古くなった書類を整理したり、要は雑用係である。姥捨て部屋とは、アンベノミクスと呼ばれていた国政時代に設けられた雇用改革制度の徒花として民間各社に生まれたというリストラ部屋をもじったアダ名だ。最低の仕事に嫌気がさして自主退職してくれるのならもっけの幸いというやつだ。

「定年までのあと数年、ここで給料がもらえるだけでも喜んでもらわないとな」

 配置替えを通告した元上司の言葉がいつまでも頭の中から消えない。

「あーあ、なんだかなぁ。でも、わたしは辞めない。しがみついてやる」

 空いているデスクにダンボール箱を置きながら思わずつぶやいた。すると奥の方から老婆の声がした。

「ふぇっふぇっふぇ、その意気じゃで。こんなところで辞めたらあきませんなぁ。会社にはとことんつきおうてもらわにゃ」

「だ、誰? どなた?」

「ふぇっふぇっ。わたしは恩田じゃ。この部屋の係長じゃよ」

「え? あの、伝説の?」

「そうか……伝説になっておるのか。あの頃のわたしはキャリアウーマンのハシリ。世の中はまったくの男社会だったものなぁ」

 我社がまだ零細企業だった頃、経理部に鬼のような女子社員がいて、社内の経理から売上、資産運用まで、お金にまつわる事柄を徹底的に分析して、倒産仕掛けていたこの会社を立て直したという伝説の主、それが恩田数子だった。その後も会社が大手企業と呼ばれるようになるまで数々の貢献をしてきたという。てっきりもう定年退職して悠々自適に暮らしているものだと思っていたのだが、こんなところで働いているなんて。

「恩田さん……失礼ですが、おいくつになられたのですか?」

「なんじゃ、いきなり。失礼にもほどがあるわいな。歳なぞ関係ないね。あんたよりふた回りほど上かな」

「ふ、ふたまわり! 定年とかは……?」

「この部屋はなぁ、時間が止まっておるんじゃよ」

「時間が……?」

「ふぇっふぇっ。冗談じゃ。まぁ、ここは好きなだけおったらええんじゃ」

「好きなだけって……ここはリストラ部屋なのでは?」

「そう思うのは勝手じゃ。勝手じゃが、実際にわたしがこの歳でこうしてここにおるのじゃからな」

「……驚いた……じゃ、わたしも恩田さんのように?」

「さぁなぁ、それはあんた次第じゃなかろうかねぇ。それに、この部屋のことは室長に聞いてみにゃなぁ」

「し、室長? まだどなたかいらっしゃるんですか?」

「ああ、そうじゃ。わたしとあんたの上司じゃな」

 恩田に手招きされて部屋の奥にいくと、パテーションの向こうのデスクに誰かが背中を向けて座っていた。薄暗くてよくは見えない。

「向野室長、新配属の山田梅子が来ましたよ」

 恩田は言いながら室長の椅子をくるりと回す。梅子は向野という名前を聞いたことがあるような気がした。そうだ、会社が立ち上げられたときの初期メンバーに、そんな名前があったような。なんでも初代社長の妾のような存在の女性が起業に一役買ったとか。

 恩田に動かされてくるりと回った椅子に座っていたのは、かつては向野と呼ばれた女性の姿だった。社内では神話化されている起業話の主役がミイラ化してそこにあった。

                                    了


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第八百二十三話 冷凍庫マン [妖精譚]

 突然僕は五千万年の長い眠りから目覚めた。
 目覚めたと言っても、僕の肉体は死んでしまって長い間冷凍庫にいたのでそのまんまの姿でミイラになっているから、単に発見されて建物の瓦礫の中から掘り出されたと言った方が正確だろう。
 いずれにしても五千万年もの間同じ姿勢のままで固まっていた僕の体はようやく解放されて、どこか違う場所の安全な建物の中に連れていかれた。
 人類の歴史を覆すかもしれない大きな発見だということで、僕の存在は世界中に知れ渡り、世界中の化学者たちが集まってきて、僕の体と近くに散乱していたという持ち物のすべてが、頭の中から爪の先まで調査の対象となった。
 僕の近くにあった持ち物は、五千万年という気の遠くなるような年月によって風化していたものの、それが衣類や靴であったり、武器として使えるものであったりということは解明されたようだ。中でも最も関心が寄せられたものは、四角い小さな金属と樹脂の箱で、その中にはぎっしりと細かい部材が押し込められていた。これを調査した科学者はそんな時代にこんなものがあったのかと仰天したのだが、それはどうやら通信機器の一種であったらしいことが解明された。同じようなものはほかにも二つほどあって、いずれも精密な機械であったことがわかった。
 そのほかにも皮で作られた鞄や樹脂製の布、武器として使われたであろうとされた先端が尖った短い棒がいくつか、革製の小物入れとその中には通貨、顔の目のところにつけていたと思われる簡易な覗き窓など、古代人らしい持ち物も多数あった。
 あらゆる調査の中でも僕が最も困惑したのは、肉体の検査だった。僕の体は手術台の上で切り出され、皮膚、眼球、脳、胃袋、小腸、大腸、あらゆる部位が分析に回された。僕の胃袋からは、死ぬ直前に食べたと思われる食材の痕跡がみつかった。動物性たんぱく質、植物繊維、穀物、アルコール分。中でも話題を集めたのは、ハーブと胡椒の成分。古代人が、腹を満たすだけではなく、食材を美味しく味わうという豊かな生活をしていたことが判明した。さらに小麦粉と炭素からは、パンを焼いて食べていたこともわかった。
 こうして僕の体は隅から隅まで調べられた後、再び冷凍保存された。より進んだ科学技術を持つ後年の学者たちが調べることができるようにだ。
 発見された後も僕の体は永遠に調査対象として保管される。それは人類にとっては良いことなのだろうが、僕個人としてはむしろそっとしておいて欲しいのだが、死んでいる者としては、要望を伝えることもできない。
 僕が生きていた頃にも、アルプスの山頂近くで五千万年ぶりに発見された男がいた。それはアイスマンと名付けられてやはり人類の歴史を大きく塗り替えることに貢献した。僕はそのニュースを驚きと賞賛に満ちた目で見たのだが、まさかそのさらに五千万年後に僕自身がアイスマンになろうとは、その時は夢にも思わなかった。僕は山にも登らなかったし、冷凍ミイラになる予定もなかったからだ。盗みに入った食肉会社の地下倉庫で迷子になった挙句、大型冷凍庫に閉じ込められる羽目に陥るまでは。
     了

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第七百九十六話 今昔家電 [妖精譚]

 十年間使ってきたマイコン炊飯釜が壊れたのをきっかけに、うちではご飯を鍋で炊くようになった。電器炊飯釜を購入するお金がない、ということもないではないが、むしろ近頃の世間の潮流としてガスで炊くというのが浮上しているからだ。

  電気釜でも近頃は炭炊釜とか土鍋とかを取り入れた高価なものが出ているのだが、それは昔ながらの土鍋炊きとか炭火炊きがいいものだということを証明してい るようなものだ。実際、火を使って鍋で炊いた方が早く炊けるし、別に炭火じゃなくても結構おいしくご飯が炊けるのだ。ただ、ちょっと目を離すと焦げてしま うという難点はあるにしろ、それだって昔は「おこげ」と称しておいしくいただいたものだ。

  こんな話を買い物帰りに出会ったご近所の奥さん にいうと、なにを今頃と笑われた。かのお宅ではずいぶん前から土鍋でおいしくご飯を炊いているという。どんな鍋かというと、これも最近話題の長谷園とかい うお茶漬けみたいな名前の窯元のものだそうだ。私もぜひそれを買おうと思っているが、その窯元のは結構お高くて、もっと安いものでもいいのかなと探してい るところなのだ。

 土鍋の話に夢中になっているところに、もう一人の仲良しさんが合流した。この奥さんもなかなかのこだわり派で、やっぱり土鍋で炊いているという。その上、いまはご飯だけではないらしい。

「あら、あなた遅れているわね。うちなんて、もうずいぶん前から洗濯機なんて使っていないのよ」

 どうやら全自動洗濯機はドラム式に進化したものを使っていたそうだが、洗い上がりが気に入らずに手洗いをすることが増えてきたそのうちに、まったく洗濯機は使わなくなったそうだ。

「手洗いの方がね、それはきれいに洗えるし、なによりも生地が傷まないのよ。いまは手洗いの時代よ」

 底に現れた四人目の主婦。

「まぁ、みなさんお揃いで。あら、うちなんて冷蔵庫も使ってませんわよ。モノを冷やすのは、昔ながらの氷がいちばん。あと、井戸水ね。井戸水って侮れませんことよ」

 見ると、彼女は着物に割烹着姿。あれ。なんて前時代的な。そう思って振り向くとさっきまで高そうなワンピースだったはずの奥さんももんぺ姿に割烹着をつけている。

「家電三種の神器って知ってる? テレビ、洗濯機、冷蔵庫なんだって」

「まぁそう、そうなの。それって戦後の話でしょ?」

「戦後? なに言ってるの、そんな昔じゃないわ。五十年代よ」

「五十年代って……いまは……」

「ほら、知ってる? もうすぐ原子力発電っていうのができるそうよ」

「原子力……」

「なんでもね、石炭や石油なんかよりずっと未来的な電気なんだって」

「へぇーっ。それって夢みたいな発電?」

 もんぺや着物姿になった奥さんたちの会話が夢のような幻のようなものに変わっているのを、私は呆然として聞いていた。なんで今頃三種の神器? 原子力発電ができるって……いつの話をしてるのよ。

「そのうち、鉄腕アトムみたいなロボットの時代がくるのかしらね、原子力で動くような」

 気がつくと私が着ていたカットソーも、いつの間にかサイケデリックな人絹織物のシャツに変わっていて、光化学スモッグに覆われた曇り空をぼんやり見上げながらご近所さんの話に耳を傾けていた。

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第七百六十四話 銀行サービス [妖精譚]

 近頃の店舗サービスは、どこもここもデジタル機器による省人力化が進んでいるようだ。最も早かったのは銀行のキャッシュディスペンサーではないかと思うのだが、そのうち電車の切符売り場やパチンコ店の貸し玉サービス、最近では映画館のチケットも無人になった。
 さらに驚いたのは、銀行窓口の遠隔サービスだ。そもそも銀行のサービスは家でパソコンによって操作できるようになって久しいが、住宅ローンの相談などは、やはり銀行員と直に会って話を聞きたいと思うのだ。だから最寄りの銀行に出向いて自動の機械から整理券を受け取ってしばし待った。すると、整理券ナンバーで呼び出されて、窓口のところに座ると、受付嬢ではなくテレビモニターが私を迎え入れた。
 モニターに「受付ボタンを押してください」と書いていたので、私は人差し指でモニター上のボタンを押した。しばらくお待ちくださいというメッセージの次に、ご相談内容をお選びくださいという文言が表示され、その下にいくつかの選択肢が提示された。
 1.一般ローンのご相談
 2.住宅ローンのご相談
 3.マイカーローンのご相談
 4.学資ローンのご相談
 5.その他のご相談
 私は住宅ローンの借り換え相談をしたかったので、素直に二番を押すべきだった。だが、生来好奇心旺盛な私が押したのは、五番だった。その他のご相談とはどういうものかを知りたかったのだ。その内容がわかれば、その時点でまた引き返して二番の住宅ローンを選び直せばいいと思ったのだ。
 五番を押すと画面が変わり、新たな選択肢が提示された。
 1.資産運用のご相談ですか? その場合は隣の窓口にお移りください。
 2.資産獲得のご相談ですか? 
 うん? 運用する資産など持っていない。どちらかというと、その資産というものが得られればいい。そう思った私は迷わず二番を押す。
 1.今すぐお金が必要ですか?
 2.宝くじを購入しますか?
 なんだこれは。そういえばこの銀行は宝くじも扱っているのだった。だが、当たったことのない宝くじ丹など興味はない。一番を押してみる。
 1.お金を借入れますか? その場合は最初の画面まで戻って「一般ローン」をお選びください。
 2.お金を奪いとりますか?
 なんだこれ。奪い取るって……そんなことできるのだろうか。二番を押してみる。
 1.何か武器をお持ちですか?
 2.丸腰ですか? その場合は上着のポケットなどに手を入れて、何かを持っているフリをしてください。
 二番を押して、左手を上着のポケットに突っ込む。
 1.全員床に伏せてもらう。
 2.全員手を上げて壁に沿ってならんでもらう。
 どっちでもいいと思ったが、一番を選ぶ。すると、モニターの後ろに広がる事務所の銀行員たちが一斉にデスクを離れて床に伏せた。その後もいくつかの選択肢を選び、気がつくと私は上着のポケットに突っ込んだ手をそのまま振り上げながら、銀行事務所の中央にあったデスクの上に仁王立ちになっていた。表がいやに騒がしい。パトカーのサイレン音まで聞こえる。なんだ? 一体何が起きているのだ? 
「銀行は既に包囲されている。直ちに人質を解放して籠城をやめなさい」
 表にいる誰かが拡声器を使って叫んでいる。どうしたのだろう。人質がいるのか? どこに?誰かが籠城しているのか? 私は一瞬ここがどこだかわからなくなったが、直ぐに銀行であることを思い出した。そうか、私は人質になってしまったのか? いつの間に? 犯人はどこだ? 私は元いたモニターのところに戻って、疑問に思ったことを検索してみようと思ったのだ。だが、モニター上に提示されている選択肢は二つだった。
 1.人質を半分解放して、逃走用の車を用意してもらう。
 2.直ちに人質全員を開放して、刑務所に入る。
 け、刑務所? 誰が? 私か? 私が犯人なのか? 震える指で一番を押す。
 1.食事と熱い飲み物を用意させますか?
 2.空腹のまま我慢しますか?
 そういえば腹が減っている。一番。
 なぜ、こんなことになってしまったのか分からない。私はいつの間にか銀行強盗籠城犯人に仕立て上げられてしまったらしい。いざとなったら最初の画面に戻って選び直せばいいと思っていた。だが、モニター画面には戻るというボタンはどこにもないのだ。私は一方通行の選択を続けてしまったらしい。ええい、ままよ。わけが分からないままとはいえども、自分で選んだのには違いない。このまま取れる金を奪って……いや、獲得して、人質と呼ばれている中の誰かを盾に逃げてやろう。きっとなんとかなる。いや、なんとかせねば。これは私がしでかしたことではない。銀行に仕立て上げられたのだ。そうならまんまとその手中に入って、役割を演じ遂げてやろうではないか。
 私は再び事務所中央のデスクの上に立った。床に伏せた銀行員が上目遣いにこちらを見ている。もう少し驚かしてやらないとな。
「金をよこせ! 一億、いや、三億だ!」
 ポケットに入れた左手を振り上げてできる限りの大声で吠えてみせた。
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第七百六十話 契約 [妖精譚]

  長い間使ってきた光回線を解約しようと思いついたのは先月のこと だ。光回線について、いまさら説明する必要もないかもしれないが、一応言っておくと、高速インターネット回線のことだ。昔は電話回線を提供していた事業者 が、いまはインターネットのための回線を提供しているというわけだ。
  当初は、電話回線をそのまま使用していたのだが、ISDNとかいう立 派な名称の割には、インターネットサイトを一枚見るだけでもすごく時間がかかった。それが今度はADSLという名前のものに変わって、少しだけ早くなった かなと思う間もなく、電話回線ではなく新たに光ファイバーとかいう太い電線か何かを使った光ブロードバンドというものが現れた。これは少し高額だったの で、すぐには普及しなかったが、いまやほとんどの人が当たり前のように光回線を利用するようになっている。私もそんな一人で、かれこれ十年近く光回線を 使ってインターネットにつないでいた。光回線が出た頃には高すぎると躊躇していたのに、いまは当たり前のようにその額を支払っているからおかしなものだ。 もっとも普及とともに少しだけ利用料金は下がってきたようではあるが。
  それにしても、このところのデフレのせいなのか、給料が下がり、景 気が悪いままの世の中で、貯蓄を食いつぶす日々が続いているのに、どうしたら改善できるのかなんて考えようともしなかった。考えても無駄だと思い込んでい たからだ。だが、家計の見直しを説いた小さな新聞記事の中に、本当に光が必要なのかということにふれられているのを見て、つい自分を振り返ってしまったの だ。懐の見直しをしなければ。
  光回線を契約している事業者MTTに電話をして、考えていることを相談してみた。つまり、もう光をやめてス マートホンに使っているモバイルWi-Fiだけでまかなうと何かトラブルが起きるかどうかを訊ねてみたのだ。すると、向こうの電話口で女性担当者が、非常 に残念そうな声ではあったが親切に対応してくれ、おかげで光回線の停止に踏み切る決意ができた。モバイルWi-Fiというのは、この三年ほどで急速に大刀 してきた新たな通信方法で、携帯電話のように、無線の電波でインターネットが利用できるというものだ。私はすでに三年前からこのモバイルWi-Fiを使っ ていて、どうも家の光とこのモバイルWi-Fiがダブっているような気もしていたのだ。
  光回線を止める。すると約五千円ほどが家計の中に 浮くことになる。これは大きいではないか。私はなんだかすっきりした気分で電話を切ろうとしたが、担当女性が最後に名残惜しそうに言うのだ。「また光回線 が必要になって、再加入するときには、今度は初期費用が丸ままかかってしまいます。そこで、一時中止状態にして回線はそのまま契約状態にしておかれる方も いらっしゃいます」それはどういうことなのか、お金はかからないのかと問うと、いえ、回線料は同じだけかかります。プロバイダー費用の千円ほどが亡くなる だけですねという答えに、なんだそんなのもったいないから、やはり解約しますと告げて、ついに電話を切った。
 とはいうものの、本当に大丈夫なのかな。長年使ってきたものを切るというのはとても不安なものだ。本当にWi-Fiだけで困らないのだろうか。いやいや、月五千円は大きいぞ。これでいいのだ。そう自問していると、電話が鳴った。
「もしもし、先ほどのMTTの担当、伯間ですが。ちょっと改めましてご提案があるのですが」
  伯間女史は言うのだ。実はMTTとは無関係なのだが、光回線に代わるもっとお得な回線を紹介できると。それは、IKARI回線と言って、ただ同然で利用で きるという。なんだそれ。もっと早く言ってよと言うと、いえ、MTTの回線ではないので、いまこうして個人的に電話をしてきたのだという。しかし、ただだ なんて、ちょっとおかしいのでは? いえ、ただではございません。ただ同然と申し上げたのです。ただ同然とはどういうことなのかと問うと、IKARI回線 の名前の通り、”怒り”でお支払いいただければよろしいのですと言う。
「怒りで支払う? それはいったい……?」
「お わかり にくいかと思いますが、人間の怒りは想像もつかないほどのエネルギーに満ちているのです。その人間の怒りエネルギーを糧とする者がこの世には存在するので す。人間が怒りを爆発させたとき、たいていそれらはその方にエネルギーを提供されることを目的にそうなっているのです」
「ははぁ、欲はわからないけれども、怒りのエネルギーっていうのはなんとなくわかる気がする。じゃぁ、たとえば私が怒りを発散させることによって、その回線がただみたいにして使えるというわけなんですね」
「その通りです」
「で、その怒りというのは、たとえば電車の中で足を踏まれたとか、自動販売機に入れようとした百円玉が指をすり抜けて足下の溝の中に落ちてしまって腹が立ったとか、そういうことでいいのでしょうか?」
「まぁ、おおむねそういうことですが、そのような小さなことではなかなか支払いには追いつきませんね。もっとエネルギーが出そうな、あるいは大きな怒りでないと……」
「エネルギーが出そうな、大きな怒り……?」
「そうです。たとえば……インターネットで誰かにブロックされて腹を立てるとか、あ、逆に誰かを怒らせてもいいのですよ。それも支払いの対象です。大きな怒りといえば……」
「政治家のやり口に腹を立てるとか、あ、そうそう隣国の核実験に怒るとか、他国から飛んできて降り注ぐ毒成分に怒るとか……?」
「あ、そうそう、そんな感じです」
「ところでIKARI回線っておっしゃいましたっけ。それってHIKARIと似てますよね」
「気がつきましたか。そうです。HIKARIから頭文字の”H”が取れているのです。”H”とは……」
「”H”とは?」
「HumanのHですね」
「ヒューマンのH、なるほど。つまり人間性を外すとIKARIになるのですか」
「理解が早いですね」
「ところで、担当いただいているあなたの名前は、確か……」
「伯間です」
「伯間さん……HAKUMA……それってもしや……」
「もしや、なんです?」
「頭文字から”H”を取ったら……」
「うふふ、本当に理解が早いのですね、お客様」
                       了
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第七百九話 大当たり [妖精譚]

第七百九話 大当たり

 あんな、昨日や。元旦の夜や。ええ夢見たわ。こんな不況の中で何するねん

っちゅう夢やで。どんな夢かって? ふふ。言いたいなぁ。言いたいけど、こ

れ、正夢かもしらんしなぁ。正夢って人に言うてしまうたら、ほんまにならへ

んとか言わへん? ほら、逆に怖い夢見たら人に話したら大丈夫やとか言うや

ん。え? そんなことはない? ほんまかいな。嘘ついてぼくの正夢つぶすつ

もりとちゃうやろなぁ。ほんまにほんま? 言うても大丈夫なん? 絶対やな?

ほな、言おか。……ああ、もうちょっとで言うてしまうところやった。え? 

もったいぶるな、たかが夢やないかて? 阿呆言うな。これ、正夢に違いない

ねんで。もしほんまに人に言うたら現実にならへんのやったらどないするねん。

大丈夫て? ほんまにほんまに大丈夫なん? わかった。僕も男や。ここは腹

を据えて言うたろやないか。あのな……ああ〜もうちょっとで言うてしまうとこ

やった。え?早う言えてか? ほんまにほんまにほんまに大丈夫なにゃろうな。

太鼓判押しといてくれるか。絶対現実になるて。なんやて、そんなん知らんが

なて? そんな無責任な。あんたが大丈夫や言うから言うたんやんか。え? 

まだ言うてないて? あ、こりゃ失礼つかまつった。

 ほな、ほんまに言うでぇ。あのな、ああ〜もうちょっとで……もうええてか?

そんなん言わんと聞いてえね。あのなあのな、年末にジャンボ宝くじ買うたん

や。一万円。ほれ、六億とか言うとったやつ。あ、これはほんまに買うたんや。

夢と違うて。そんでな、その宝くじが当たってしまうんやなぁこれが。毒に当

たったんちゃうかて? 違います。宝くじが当たるんです。ええ? そら決まっ

てるやん、前後賞合せて六億や。大きいで。ところがやなぁ、換金しに言った

らな、細かいのんしかないて言いよんねん。それでもええからくれ言うたらな、

十円玉でええか。そやなかったら渡されへん言いよんねん。そんなもん、もら

われなんだらえらいこっちゃ。なんでもええからくれ言うた。そうしたら、頭

の上からじゃらじゃらじゃら! そりゃあ、もう少しで十円玉で生き埋めにな

ってしまうところやったわ。うわぁい、助けてくれ! 叫んだら、目が覚めよ

った。どや、これは正夢か? 知らんて? そんな殺生な。せっかく気持ちよ

う話したのに。え? 関係ないてか。そんな無責任な。

 これ、正夢やったらどないしよ。六億はいるんだけが正夢で、生き埋めにな

るとこは嘘夢ちゅうことにはならにゃろか? え? ならん? なんでえな。

ぜひ、そのようにしてくれたまへ。なにしろ初夢の正夢やからな。何? 初夢

と違う? そやかて元旦の夜見たんやで。年越して最初に見た夢やで。違う?

初夢は、二日の晩に見るのが初夢て? ということは、ゆんべかいな。しもた。

ゆんべは酒飲み過ぎて寝たから、ぐっすりで、夢もなんも見なんだわ。えらい

ことした。せやけど、初夢やのうても正夢は正夢やろ? 六億円! 違うのん?

初夢やなかったら正夢にはしたらへんって? なんちゅうこと言うねん、それは。

せっかく見た夢や。なんとか正夢にして……あ、生き埋めの常葉嘘夢で。なぁ、

ええやろ? 水臭いこと言わずに。わかったって? そう、よかった。さっそく、

宝くじが当たってるかどうか調べてみいって? そうやな、それがええな……あれ?

どこやったかな。たしかここのとこに仕舞といたはずやが。おかしいな。宝くじが

あらへん。あんた、取らへんかったか? そんなことはないてか。そやなぁ。あん

たがそんなわるいことするわけないし。あれぁ? もしかして宝くじ買うたんも夢

やったんやろか。おかしいな。確かに現実に買うたはずやが。一万円払たし。ちょ

っと家帰って探してくるわ。ほな、さいなら……気いつけえって何に? え? 外出

たらあぶない? 山崩れ? どこが。そこが? 嘘。え? あ、ああ、ああああ〜!

なんか崩れてきよったぁ! た、助けてくれぇ〜う、う、う。苦しい〜うーん。うー

ん、うーん……

 

  あんな、おかしな夢みたで、昨日や。元旦の夜や。なんかええ夢やったような、悪

い夢やったような……悪い夢は人に話したら正夢にはならんっていうけど、ほんまか?

                           了

 

 


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第六百九十話 三匹の子豚ちゃん [妖精譚]

 やさしい母の元で仲良く暮らしていた三姉妹は、大人になるとそれぞれ独立

して一人暮らしをしていました。いちばん上の姉は、最初は普通にOLをしてい

たのですが、海外旅行に出かけたりブランドバッグを持っている友人に勧めら

れて、水商売の道に入ってしまいます。しかしホステスぐらいではそんなにお

金がもらえるわけではありません。次第に怪しい世界に足を踏み入れ、とうと

うキャバクラSTRAWという店で働くようになってしまいました。この店には、

普通の客に混じって、あまり質の良くない男もやってきます。そんな一人に気

に入られてしまった姉は、ストーカーまがいのこの男に付きまとわれてしまい

ます。毎晩家までやって来る男。そのうち、根負けして男に食われてしまいま

した。それからしばらくは男の情婦のようになっていましたが、やがて捨てら

れてボロボロになった姿で末の妹の家に逃げ込みました。

 真ん中の姉はもう少し賢い女性でした。首尾よく木造建築を手がける住宅

メーカーに就職し、順風満帆な人生を送っていました。社内にあこがれの先

輩がいて、なんとか恋人候補になりたいと願っていましたが、同じ会社の先

輩OLとの結婚を知らされ、どん底の気持ちになってしまいました。そんなとき

やさしく声をかけてきたのが、取引先の大上さんでした。それまでは先輩に

ばかり目を向けていたので全然気がつかなかったのですが、よく見ると彼も

なかなかのイケメンです。彼に誘われるままにお付き合いをはじめ、ついに

ある日、気持ちを許した隙に、彼に食べられてしまいました。その上、それき

り彼は姉を捨ててしまいました。彼にとって単に身体目当てだけのお付き合

いだったのです。身も心もボロボロになった真ん中の姉もまた、妹の家に逃

げ込みました。

 いちばん下の妹は、もっと賢い女の子でした。といよりも、母譲りの美形は

すべて二人の姉に持って行かれてしまい、この娘だけが父親似の残念な容

姿であったと言わざるを得ません。しかしそのお陰というべきか、これまで浮

いた話は皆無で、その結果男というものをほとんど知らない彼女は、もう男

嫌いではないのかというほど鉄壁の、いや、石のように守りの硬い女性に育

っていたのでした。就職先もさほど高望みもせず、小さな町の工務店で事務

員として地道に働き、真面目に貯金も貯め込んでいる様子が社長に見初め

られて、ぜひうちの馬鹿息子の嫁にという話が出来上がりました。妹は最初

はそんな大それたと断ったのですが、まぁ一度だけ息子とデートだけでも、

ということになりました。この家の馬鹿息子は、父親からはそのような呼ばれ

方をしていましたが、これがたいそう生真面目で頭のいい男で、国立大学を

てしばらく商社で働き、ノウハウを吸収した後に家を継ぐために帰ってきたと

いう今時珍しい地道な人間でした。もう三十歳を大きく上回っていましたが、

見た目も決しておじさん臭くもなく、それなりに女性扱いの出来るこの息子を、

妹はすっかり心惹かれてしまいました。もう、鉄壁の、いや石のような守りは

必要ありません。まもなく結婚してしあわせな生活をはじめていたその矢先

のことです。二人の姉が相次いでボロボロになった身を寄せてきたのです。

もちろん、仲のいい姉妹であり、やさしく賢い妹ですから、二人の姉に、しば

らく家で気持ちを癒すことを奨め、夫もまたそのことに賛同してくれました。

 妹の夫は、義姉二人の話を黙って聞いていましたが、すべてをっき終わっ

た後、意を決したように三人姉妹に言いました。

「そんな男は、男の風上にも置けない。僕はそういう男を許せないんだ。知っ

てしまったからには、成敗せずにはおれない。いいか、すべて僕に任してくれ

ますか?」

 妹の夫、武流享輔(ぶるうすけ)は上隠工務店の跡取り息子というのは表

の姿で、その裏側には闇の騎士だった。工務店の地下にこしらえた基地で

蝙蝠の扮装に着替えて、義弟たちの敵である男を懲らしめるために蝙蝠車

を発進させた。

 この後、上隠工務店は街いちばんの大企業にまで成長するとともに、この

町には蝙蝠男という守り神が存在することが知られるようになるのは、言う

までもない。

                                 了


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第六百七十四話 動画ひとつよろしく [妖精譚]

 暇さえあればパソコンの画面に食らいついている。最近の俊介は、どうやら

インターネットオタクと呼ばれても仕方のないような日々を送っているのだ。

インターネットで何をしているのかと言うと、実は何もしていない。ただただ

見ているのだ。俊介が虜になっているのは動画サイトだ。MeTubeという動画

サイトには、何かしら自らムービーカメラで撮影された動画が、毎日世界中か

らアップされている。それらはなんでもない日常が撮影されたような代物もあ

るが、とんでもないおもしろムービーが上がっていたりする。世界中の人々が

そういうものを見つけて見るから、視聴者数がとんでもなくふくれあがって、何

万、何十万というヒット数が示されていたりする。それを見た人々が、今度は

自分がそのような面白い動画をアップしてやろうと、もっと面白い動画を自分

で作ってアップする。こういう人々が世界には何千何万人もいて、動画数は

毎日どんどん増えていっているらしいのだ。

 俊介も一度はこのMeTubeに自分自身の動画を上げてみたいと思う。見

ていると、ほんとうにクオリティの高いパフォーマンスを見せる人はごく僅か

で、残りはカスみたいな動画ばかり。だが、そのカスみたいな動画の中に、

キラ星のように稀有な瞬間をとらえた奇跡の動画があったりするから面白

いのだ。俊介には何も特技がない。歌も楽器もダメだし、ダンスも体操も、

コントも漫才もできない。だからカメラで撮影して世界に向けて発信できる

ものなど何もない。だけど何か自己表現をしてMeTubeに乗せてみたい。

俊介は考えに考え続けた。何ができるだろう。ない頭を抱え続けてようや

く思いついたのが、とんでもないアイデアだったのだ。

 俊介は怪しいネット通販で、スパイ用の小型カメラを手に入れた。画質は

劣るが、案外安価で手に入った。タイピンのようなカタチをした小さなカメ

付きのムービーカメラだ。つまり、隠し撮り用。俊介は、自分では何もできな

いのであれば、他人の姿を動画で撮影すればいいのだということに気がつ

いた。俊介は馬鹿だから、他人の写真を無断撮影すると、肖像権やら何や

ら、人権にまつわる困った問題が発生するということにまでは思いが及ば

ない。そんなもの、仮にあったとしても、匿名で上げる動画に、なんの責任

も発生しないとタカをくくっている。

 それからというもの、パソコンの前にいないときには、このスパイカメラを

持ち歩いて、ことある毎にスイッチをオンにする。喫茶店で鼻をほじってい

るおじさん。電車の中で口を開けてお又を開いて居眠りしている女子高生、

酔っぱらって歌いながらふらふら歩いているサラリーマン、学校の授業で

イビキをかいているお馬鹿な大学生、セールに顔色を変えて群がる主婦

……よくよく回りを見渡せば、おかしな人々は結構いるのだ。俊介はこう

いう人々に目を光らせて、日夜カメラを動員するようになった。まだ、これ

といって面白い動画には出会えていないのだが。いまもカメラを片手に

町を徘徊している。昨日は、繁華街の店の前で殴り合いの喧嘩を撮影

できたのだが、これをアップしていいものかどうか迷っている。もっとイン

パクトのある、もっと面白いシーンを撮影して、世界中の人々に見てもら

うのだ。そういう一心で、今日も隠しカメラを構えている。いまもほら、あ

なたの近くで、俊介がカメラを潜めて回しているよ。

                             了


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第六百三十七話 衣替えのシーズンに [妖精譚]

 「あのさぁ、うちはまだ衣替えができていないんだよね」

 春子が言うと、アキは意外そうな顔をして答えた。

「あら、衣替えなんって……随分久しぶりに聞いたわ」

「ええーっ? しないの? 衣替え」

「しないっていうかね、いつもできてるっていうのか、そういうことする必要

がないのよ」

「まぁ、それ、どういうこと? まさか……」

「見せてあげようか? ウチのワードローブルーム」

 初めてアキの家を訪れた春子は、想像していたよりも遥かに広いことに驚い

たのだが、確かにこの家なら大きな衣装部屋があっても不思議ではない。部屋

を見せてくれるといって廊下を進むアキの後ろを追いかけた。

「ほら、これが春服の部屋よ」

 アキが扉を開くと、部屋の中からフローラルの香りがして、明るい壁紙の色

が漏れた。ドアのところから中を覗くと、十畳近くはあろうかと思われるウォ

ークインクローゼットになっていて、ハンガーポールに春らしいパステル調の

衣装が並んで吊られているのが見えた。

「す、すごい。これ、全部春物ばかり?」

「そうよー」

 言いながら、アキは廊下を進んで次の扉を開いた。すると今度は青葉の香り

が漂ってきて、明るい陽射しのような光が漏れた。白っぽい夏の衣装が爽やか

に吊られている部屋の次は、秋服の部屋。フルーティな香りとともに、ベージュ

や茶系を中心とした衣装が並んでいた。その次は冬服部屋。ウールというか、

毛皮っぽい匂いとともに、黒っぽい衣装が多い印象だった。

「あんた、お金持ちだって噂には聞いてたけど、ここまでとは思わなかったわ」

「うふん、お金持ちってわけじゃぁないのよ。まぁ、確かにお部屋が広いのは

確かだけれども、衣装なんて決して高級なものばかりじゃないわ。入れ替えた

りするのって面倒くさいから、季節毎の衣装部屋にしてもらっただけよ」

 そんな風に言われると、もはや返す言葉もなく、そういうのをお金持ちって

いうんじゃない、と言いたくなるのを飲み込んだ。そんなことよりも、奥にあ

る次の部屋が気になったのだ。

「隣は……まさか、アクセサリールームだなんていうんじゃないでしょうね?」

「まさか。いくら私でもそんなものに一部屋使ったりはしないわ。ここはね、

春子んちはどうしてるのかしらないけど、スキンルームよ」

 スキンルーム? なんだそれ。 ああ、メイクルームってこと? アキが扉

を開いてくれたので、中を覗くと、日焼け止めクリームみたいな匂いがした。

他の衣装部屋に比べると、暗く狭い印象の部屋で、ハンガーにはやはり何か

がつり下げられていたので、あれは何かと訊ねると、アキは少し不思議そう

な顔で答えた。

「何って……スキンじゃない。ほら、あれが春用のホワイト肌、その隣のが

夏用の小麦肌、ひとつ空いた向こうが冬のもち肌スキンよ」

「それって……」

「ああ、秋用のはいま私が使ってるから。ほらこのしっとり肌スキンのよ。

こないだ秋用のに着替えたばかりだから、ほら、まだ身体に馴染んでないの。

春子とか、そういうのどうしてるの? ほら、私は着替えるのへただから、

ここんところがちょっと引きつったりしちゃってて……」

 アキは着ていたブラウスの後襟を少しつまんで後ろに引っ張った。する

と首の下の背中に、着ぐるみについているようなファスナーが見えて、そ

のあたりが少し吊って皮がよじれているのだった。

                      了

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第六百二十六話 初期化細胞 [妖精譚]

「・・・・・・つまり、すでに分化してしまっている細胞の初期化が可能ということ

です」

「初期化・・・・・・ですか?」

「そうです。たとえば、皮膚の細胞は皮膚の役割をするような設計図に基づい

て作られているわけですが、ここに四つの遺伝子格を注入することによって、

分裂前の単核受精卵と同じ姿におどすことができるわけです」

「ということは、皮膚の細胞がまっさらになると?」

「そうです。IT用語でいうところの初期化が可能なわけです」

 ノビール賞を受賞したばかりの山中田教授の話を熱心に聴いていた其田女史

は、自らも生理学研究に取り組んでいる研究者だ。以前から何度も山中田教授

の講義は聴講してきたが、こうして間近に話を聞くのは初めてだ。IPS細胞につ

いても、より一層深いところまで理解することができたようだ。

 細胞に四つの遺伝子核を注入することで初期化できる・・・・・・。其田女史は、

初期化という言葉に強く反応していた。三十路を過ぎている女史は、最近特に

研究で徹夜続きな生活をしているためか、肌の衰えを気にしはじめているから

だ。シミ、皺、たるみ。こうしたものすべてをなんとかしないと、今に老人のような

顔になってしまう。

 研究室に戻った其田女史は、早速四つの遺伝子核を抽出し、培養液カプセル

の中に保存した。この液体が初期化細胞をつくるのだ。だとすると・・・・・・其田は

この培養液を皮膚細胞に注入するかわりに、ブラウスの袖をまくりあげ、自分の

腕に注入した。もしかすると、新たな現象が現れるかもしれないではないか、そう

思ったのだ。危険はない。細胞レベルではなく、人体レベルでも同じ事が起きるか

起きないか、それだけだ。反応はすぐには現れない。代謝の速度が伴うからだ。

 翌日。それは微かな兆候を見せはじめた。なんとなく肌の調子がいいのだ。化

粧ノリがいい。もしかすると? 其田は内心喜んだ。

 さらに翌日。明らかに肌がスベスベになった。まるで赤ん坊のそれだ。やった!

山中田教授は、細胞にばかり目を向けていて、人体そのものへの効果までは試

験していない。この発見で、私は次のノビール賞をもらえるかもしれない。その上

若返りも! 自分の肌の初期化に成功した其田女史は、その次に何が起きるか

までを予測することはできなかったようだ。

 次の日の朝。それは発現した。すべすべの赤ん坊のような肌をした女性がベッド

の上で目覚めた。だが自分が何者なのか、何故ここにいるのかわからない。そん

な表情で、無垢な瞳がただただ白い天上を見上げている。初期化。それは、細胞

のみならず、其田の身体の全てに効果をもたらしたようだ。其田は、身体のすべて

を赤ん坊と同じレベルにまで初期化することに成功したのだ。

                                    了


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